想像界

視覚的な「イメージ」とともに、言葉の「意味」の側面。
言葉の「意味」を担っているのは想像界であり、象徴界ではない。 【象徴界は純粋なシニフィアンの作動。 言葉の「音韻的な側面」のみの無意味な作動。】


もう一つありがちな誤解として、「象徴界は社会のことである」という言い方がされることがあるが、単純にそうは言えない。 部分的には社会の機能を課されているかもしれないが、社会の機能の大半は想像的なものになっている(cf.『想像の共同体』)。

 鏡像段階において、人間は、まだばらばらの状態であったみずからの身体イメージを、鏡の中にはじめて全体的・統合的なものとして発見し、そこにおいて自己イメージを先取りしようとする。 (斎藤氏のレジュメより)

統合的な自己イメージを獲得する前の子供の自己イメージは、寸断されている*1。 このバラバラな状態を革命的に修正するのが鏡。 鏡に向き合って「これが自分だ」と認識する瞬間に、子供は小躍りして喜ぶ。


フロイトの発達段階論(口唇期・肛門期・男根期)は、直接観察できる話ではなく、きわめて抽象的。 同様にラカン鏡像段階も、「人間が自己イメージを、鏡像的なものを媒介として獲得する」という抽象的な話であって、実際には家の中に鏡がなくても子供は育つ。


人間は自己イメージの獲得を、あまりにも早い段階で、目によって(視覚的に)なす。 自分の身体感覚を視覚によって獲得する。 ここにアンバランスが生じる。 人間は認識の90%以上を視覚に頼ると言われるように、視覚偏重。 →想像界偏重

 しかし、この行為は、本当の自分とは左右が反転した形のイメージに自分を同一化し、それが本当の自分ではないということを忘れていく過程でもある。 ここにおいて、最初のナルシシズムが成立するが、このようにナルシシズムとは、必ずしも自分自身を直接に愛することではない。 それは、自分によく似た他者へと向けられた愛のことである。 (レジュメより)

最初にこの“嘘”を引き受けたおかげで、人間はいろいろなものに自己を投影することができる(同一化)。 動物や映画の登場人物に感情移入したり。(通常、動物は鏡像を理解できない。)

 自我もまた、想像的なものである。 自分自身について語ることは、このように、自己イメージが根本的に不正確なものでしかないことを考えるなら、ほとんど不可能なことである。 むしろ精神分析は、こうした自己イメージがはらんでいる不確かや矛盾をクライアントに気づかせることで、象徴的な次元へとクライアントを導くことを目指すことになる。 (斎藤氏のレジュメより、強調は引用者)








*1:cf.「寸断された身体 corps morcelé」