解離的なひきうけ――「視覚を区切ること」

解離のポップ・スキル』(p.226-7)、東浩紀との対談での斎藤環の発言より:

 起きていることや、見えていることの印象というレベルでは、やはり私は東さんと一致する点が多いとあらためて思いました。ただ、象徴界による媒介の衰弱という点については、ちょっと印象から理論への飛躍が過ぎるのではないか。ここは東さんの嫌いなラカン用語で話しますが、現実界象徴界想像界というのは、心的装置における認識のトポロジカルな配置であって、必ずしも想像界イコール視覚イメージとか、象徴界イコール言語、といったスタティックな対応関係にはならない。また、現実界想像界象徴界が媒介する、という認識は、訓詁学的には誤りで、そういう階層構造は存在しません。現実界の作動を媒介するものは、たんに存在しない。象徴界は無意識そのものであって、その作動は想像界のスクリーンに反映するけれども、象徴界はなにものも媒介しない。そもそも「媒介−被媒介」とか、メタレベルの発想は、おおむね想像的なものでしょう。むしろ画像について、あるいは言語について考える際にも、三界それぞれの位相差において解釈することができる。だから東さんの言うところの「象徴界=国家」といった理解は、僕は与しがたいけれども、その限りにおいては誤りでもない。つまり、東さんの欲望をそこに読み取ろうとする限りにおいては、ということです。ただ、媒介が不在であるかに見えることと、本当に不在であることは全く異なるわけで、「不在にみせているもの」が東さんの言われるようにテクノロジーであるなら、そこに象徴界の作動を読み込むべきではないか。それはワープロの誤変換に「言い間違い Freudian slip」の場所を見いだすようなものですね。
 さらに言えば、従来はおおまかに言って「視覚イメージ=想像的なもの」と言って済ますことができたけれども、それこそ東さんのいう「過視化」の進行にともなって、視覚イメージにも認知困難な「現実的なもの」の位相が食い込んできている。データベースの存在自体は現実的なものかもしれないけれど、その個々のデータは徹底して想像的な成分から成り立っているという点でも、相互浸透的な様相を呈してはいるのかもしれない。ただ、過視化やデータベース化を促す欲望という点については、やはり象徴的なものの作動を考えないわけにはいかないのではないか。視覚化、イメージ化の徹底的な進行は、一見、それこそ象徴的な抑圧の解除のようにもみえるけれども、それが部分的には「解離」のような旧タイプの防衛機制を賦活している。やはり人間は、あまりにも無媒介的な世界には耐えられないのではないですか。

「媒介」のところに、今の私は、無意識とリンクした交渉関係を見ようとしている。


「すべて見つくした(totally watch)上で決めなければまずい」という強迫観念は、泥沼の再帰性にはまり込む。 その状況では、避けがたくすでに参加してしまっているゲーム(扶養関係)による自他の有限化の事実は、否認される。 恐怖症的に視界の全体性(想像的勘違い)を維持することで、自分をうまく有限化できない。 ▼場当たり的な有限化は、「視界の分断化」として実現する。 「根拠なき有限な視界」での順応は、解離的に実現するしかない。 そこでは、「引き受けること」は、「視覚を区切ること」をしか意味しない
連続性を回復しようとするときに、視覚=意識(想像界)で支配しようとするのか*1、無意識(象徴界)を資源として確保しようとするのか――言葉を形にしようとするときのスタイルとして、そこにまず立場のちがいが現れると思う。







*1:左翼的で暴力的な革命論