当事者化――象徴的・想像的ではなく、現実的

当事者化の動きこそが軽蔑され、防衛的に排除される。
「この人は、自意識に執着しているにすぎない」という扱いを受ける。


ほとんどすべての人は、ご自分の当事者化を防衛的に排除している。
自分を状況の要因とみなし、分析的に検討することは、とても耐えられないと感じている(そのことにすら気づいていない)。 ここでは、自分を分析の作業とする当事者化の動き*1にこそ、《現実的なもの》の問題構制がある。


「観客席にいるのをやめてほしい」という私の斎藤環氏への発言(参照)は、まったく同じ趣旨において、ひきこもる人にも向けられている*2。 斎藤氏も、同時代のすべての人も、《当事者化》を防衛的に排除している。 ひきこもりは、「当事者化の排除」の極北として生じている。


既存の社会思想や支援論には、象徴的・想像的な当事者論しかない。 しかし本当に必要で、臨床的にも政治的にも喫緊なのは、現実界的な当事者化の動きだ(それこそが繰り返し回帰する)。 分節作業に取り組み始めたとたんに、周囲から排除されるような営み。 当事者化の動きこそが、蛇蝎(だかつ)のごとく忌み嫌われる*3


「ひきこもり当事者」という別格扱いでは、そう扱う側の当事者化が免除されている。 ひきこもった本人が自分を「ひきこもり当事者」と別格扱いするときにも、本人の当事者は免除される(「自分は当事者なんだ」という鏡像的確認と、それを前提にした操作でしかない)。 発言の機会を与えられることは、現実界的な当事者化のチャンスではあっても、そこで漠然と自分語りしたのでは、イマジネールに埋没したにすぎない。





当事者化の駆動因としての、外密(extimité)=現実界Le réel

現実界」「現実的なもの」などと訳される 《réel》 は、ラカン精神分析の核心にあるとされる概念*4
以下、新宮一成ラカンの精神分析 (講談社現代新書)』、「象徴界の外密(extimité)=現実界Le réel)」より:

 象徴界は、このような黄金数を、自分自身の延長の必然的帰結として内包している。しかし、象徴界は、比(有理数)であるがゆえに、自分自身の極限値である対象a無理数)を、自分自身にとっての不可能性としてしか内包できない。自己の外部のものが、自己自身の内側に内包されるということ、このような状態を、ラカンは「外密(extimité)」と呼ぶことを好んだ。外部でありながら最も「内密」な親しさを要求するものであるからだ。
 象徴界は、自己の象徴化の範域である。そのような範域の極限に当たるところに、この範域にとっては不可能なものが、組み込まれている。このように、自己を象徴化する理性が、自己にとっては不可能であるのに、それに対して関係を結ばざるを得ないような外部、これを現実界Le réel)と言う。起源において在ったはずの我々自身が、悦びの名残りとして、更なる象徴化を求めている。我々は、その求めに応じて、無限の果ての現実界へと踏み込んでゆくのである。 (pp.202-203)

当事者化は、自己を問題化しつつ、自己にとって最も疎遠な《外密》を駆動因としている*5
「外密=現実界」に向かいながら、それが個人に閉じるのではなく、過程として、状況そのものの分節として形成されること、その労働過程をこそ提案し、実演している。
状況を問題化する過程は、当事者としてなされる。 それは「自分にこだわること」というよりも、最も疎遠な外密に固執することで、最も忘我的な分析過程に自分を同一化することだ。(静態的アイデンティティではなく、過程への忘我的同一化。)
周囲の人がみずからの当事者化を排除していれば、この動きは「ナルシシズム」として攻撃される。 たいていの場合、現実的な当事者化は排除され、社会生活は、想像的・象徴的な正当性確保に終始する。



【追記】ラカン派と、現場的な分節過程の強調

私はここで新宮一成氏の記述を引用しているが、ラカン派の議論は、「外密(extimité)」「現実界Le réel)」という概念を静態的にしか語り得ていない、少なくともそうとしか思えないことに、強い苛立ちがある。 外密うんぬんは、たんにスタティックに説明すればいいのではなくて、実際にはそれによって駆動される現場的な分節過程こそが本当に必要な労働であるはずだ*6。 ところが(少なくとも私が日本語で接するかぎりの)ラカン派は、マテームなどの静的構造を現象の中に事後的に発見し、それを「説明」して終わってしまう。 そこには、「当事者」という、赤字にした部分の動きがまったくない。 本当に必要なのは、ラカンならラカンの財産を活用しつつ、私たち自身の現場的な分節プロセスを生き抜くこと、そのための言説環境の改善をすること――それでしかあり得ない。 ▼これは、私の斎藤環氏への反論でもある。 ここで私が行なっている当事者化論は、「社会的ひきこもり」の臨床論そのものだ。



*1:「ニーズの表明」を当事者化とする上野千鶴子氏とは、はっきり立場が違う。

*2:斎藤氏は、最後までそのことに気づいてくださらなかった。 「“当事者”が、医者を攻撃している」という凡庸な図式にしか見えなかったのだと思う。

*3:この差別的排除は、パワハラ・セクハラの嫌疑にすらなる。

*4:斎藤環氏による、象徴界想像界現実界の解説:「ラカン派精神分析のパラダイム

*5:単なる「自分語り」も、自分を置き去りにした「正義の味方」も、みずからの外密を忘却してごまかす。 彼らは、《当事者化》を拒絶している。 ▼これでは、残された当事者化は「ゲームの主人公になる」という形でしかない。 自分がどういうゲームを生きているかについては、分析されない。 適応できなかったらアウト。

*6:新宮氏なら、死んだモノのように投げつけられる「解釈」にこだわるところを、私は語る自分自身までふくんだ動態的な分析過程にこだわっている。 これは、精神分析と制度分析の対立と見ていいように思う。