「工学的必然性」vs「論争的参加」

 私は空想物語に参入することにおいてではなく、他者たちとの論争的・対話的関係において社会に参加する。
 ・・・・私が「フィクション親和性が低い」のは、フィクション読解においては、私の側の責任を持ち込んだ「論争的参加」がそこでは不可能だからではないか? ・・・・いや、そもそも理論的な書物さえ読めなくなってたのだからな・・・・。・・・・そう、私が文字や言語に求めたのは、その「実効力」だった。「その言語に付き合うことにおいて、何が実現できるのか?」。・・・・ひとまず私は上記において「論争的参加」ということを一つのキーワードとして打ち出したが、以前の私はもっと徹底した「効果」を言語に期待していた。・・・・それは、ひょっとすると「現実への効果」に期待する形のファンタジーだったのかもしれない。私は「魔法」や「前世」は信じないが、「私にできるかもしれない何事か」に最大限の期待をかけ、もってわが人生の価値としようとしたのではないか。「生まれてきたことは最大限、何に利用し得るのか」、「生身の人間として生まれてきたことにおいて実現すべき最高度の現象=ミッションとは何か?」・・・・・こうしたことばかり考えていた。理論的-工学的ファンタジーの実現を目指すことにおいてやはり「万能感」を夢想していたのか、そうやって自分の自我を守っていたのか。
 私が目指していたのは、たぶん「本物の必然性」だと思う。「そうか、これのために生まれてきたのか!」と、自分の人生の謎のすべてに答えを与える究極の必然性との出会い、そしてそれへの没頭。・・・・それは最高の「自由」ではないだろうか? 私は、最高の意味での「必然性」を目指していた、それは「人間としてなし得る最高の現象操作」として、理論-工学的に実現されるべきものとして夢想された。


 「工学的必然性への没頭」は、おそらく「対話も論争も必要としない」、「時間軸のどこかで何かが達成され、そこですべてのミッションが終了する」没頭だ。私はそうしたものを目指していた、熱望していた。それだけが自分の人生に意義を与えると信じていた、というよりそうでないと耐えられなかった。さもないと私は「放置された肉塊」でしかなかった。いっぽう私は上で、「社会への論争的参加」という姿勢を提言している。これは逆に、ものすごい勉強量と言葉の豊かさを求められる、「終わりのない過程」だ。
 ――この両者の違いに含まれる含蓄を、よく考えてみること。*1

*1:ちなみに「転移」の対象は、「私にとっての必然性を体現した人物」だったと思う。中塚氏の論文には、新宮一成氏の次のような言葉が引用されている。「転移によって我々が愛を向ける場所は、この世のほかにある」。・・・・私の言う「工学的必然性」は、自分の「必然性」の実現を、「この世のほか」ではなくまさに「この世」において実現しようと目論むもの。私が苦しくなりおかしくなる理由は、どうもこの辺にあるような気がするのだが、いかがだろうか。