欲望と無気力――自己言及・専門性・公正さ

  • 「ひきこもり」に関連し、無意識の欲望の問題系と、専門性の問題系がリンクすべきであると感じている。
    • 支援や理論を志す側にとっても、そうした仕事を享受する側にとっても。


  • 《動機づけ》を論じるのに、次の2つはどうしても必要。
    • 動機づけようと思う相手と自分との関係を、フィードバック的に検証する枠組み(再帰性)。
    • 「相手を動機づけようと思っている自分はどのように成立しているのか」という、自己言及的なチェックの枠組み。


  • 当事者性は、専門性や欲望との関係で論じるべきではないか。
    • 《公正さ》を望んでいるのは、誰なのか(欲望の当事者性)。
    • こうした事情を検討しようとする者の専門性はどのように構成されるべきか。 ▼欲望と公正さの専門家。


  • 「医者・学者として研究する」という興味の持ち方のディシプリンと、「自分が苦しんだことについていい加減な議論を許せない」というディシプリンと。
    • 経験当事者は、「よく知っている」というよりは、「強くこだわっている」と言ったほうが当たっている(「知っている」わけではない*1)。 ▼それは、「その問題を愛している」という言い方で語れるかもしれない。 愛があるがゆえに、軽々しい分析を許せない――自分自身の行なった分析についても。
    • 不登校・ひきこもりは、愛と傷への分析と処遇をめぐっている。 それゆえ、徹底的に紛糾する。


  • 多様な欲望(実存)を許容する制度設計の問題と、個々の欲望や実存の問題は、お互いに無関係ではないが、分けて考えなければならない。 実存としてはうまくいっても、制度設計の思想としては間違っていることがある。 【参照
    • 私は、制度設計のためだけでなく、個々の実存のマネジメント(メンテナンス)のためにも、《専門性》というモチーフが重要だと思う*2


  • 専門性は、実存レベルでは、「特化された欲望」として生きられる。 「ディシプリン」は、具体的には《欲望》として生きられる。
    • たとえば私であれば、いいかげんな映画論を聞かされても「はぁ、そんなもんか」としか思わないが、「ひきこもり」についてだけは、「どこがおかしいのか」がわかるし、おかしなひきこもり論をされれば、相手が誰であろうと、「ちょっと待った」と言いたくなる。 この「ちょっとまった」ができるディテールへの理解と、それを可能にする徹底的な固執が、《専門性》ではないかと思う。 理不尽な欲望なしには、専門性は構成できない。


  • 本田由紀氏は、個人が「鎧(よろい)」として専門性を身につけるべきだと論じたが*3、そのような専門性を可能にする欲望を形成・維持することこそが難しい。
    • 「欲望の専門性」と、それによって維持される機能的専門性は、労働市場では「鎧」のイメージかもしれないが、実際の対人関係のマネジメントにおいては、実存維持のための政治的指針になる。 ▼トラブル耐性の要(かなめ)としての、主意主義的要因。
    • 現実に多くの者が、欲望の専門性によって社会関係と実存をマネジメントしているように見える。


  • 「早い段階で好きなものを見つけたほうがいいよ」*4「専門性を身につけなきゃ」という命令は、それ自体が非常に超自我的・抑圧的である。 何も見つかっていない段階で「好きなものを見つけようとする」ことは、非常に苦しい。 ▼うまくいった人間は、うまくいった地点から、「やればできる」と言いたがる。 しかしそこでは、「うまくいった自分」への反省的分析はなされない。 「たまたまうまくいった」「自分にはできた」としか言いようがない。
    • 「確率的要因は廃棄できない」という意味においては、もちろん「やればできる(かもしれない)」の契機は、捨て去れない。
    • 「模倣しているうちに本物の欲望になる」という要因も重要だが(「守破離」)、難しいのは、「模倣したくなる」という欲望を起動すること。 これはそのまま、「転移」の難しさに当たる。


  • 超自我的・抑圧的な命令は、往々にして「自己矛盾」的である。 「民主的な社会」を主張する人間がきわめて威圧的であったり、「差別撤廃」を主張する人間が極めて差別的であったり。 ▼「べき論による自己確保」は、「オナニーに同意することを求める威圧」である。


  • 超自我のエネルギーが、実は《死の欲動》に由来する」という理解【参照】が、最近の私の導きになっている。 ▼《動機づけ》というテーマについて考えるときにどうしても外せない、「すでに生きられている狂暴な衝動」(反復強迫)、あるいは「社会的な自由連想」。 本人にそのつもりがなくても、すでに生きられてしまっている
    • 再帰性の構造そのものが、トラウマの再生産装置として反復強迫的に生きられてしまう。 それが欲望を繰り返しスポイルする。 あまりにも執拗な「欲望のメルトダウンに、繰り返しくり返し途方に暮れる。 ▼欲望をスポイルする構造そのものを、執拗な欲望の構造として生きるしかない。


  • 支援者側における、動機づけの自己検証。 「他者を動機づける」という活動自身は、どのようにして、なぜ「動機づけに成功している」のか。 ▼cf.「自分が救われることと、他人を救うことを混同している学生が多い」という、高石浩一氏(臨床心理)の指摘。
    • ひきこもりに関わることは、それ自体が動機づけをつねに問われる。 動機づけを失った存在にかかわってゆくことの動機づけ。 【参照:「支援対象と契約主体」】。 ▼「ひきこもり」に関わることは、あまりにも人を消耗させる。
    • ひきこもり支援のトラブルの多くは、「他者を動機づける」=「他者の欲望を直接問題化する」という、特殊な仕事事情に起因している。 ▼他者の欲望を問題化する私の行為は、どのように正当化できるのか。 【ひきこもり支援の専門性は、どのように正当化できるか。その仕事は、どのように評価すれば、「正当に評価した」ことになるか。】


  • そもそも、「ひきこもり支援を論じる」という行為は、どうして自分を維持できるのか。 「論じる」という行為が、欲望枠として維持されている。
    • 私に取り憑いたひきこもり論の過剰さは、私にとって決定的に重要なもの。 この論じることにおいて生きられる過剰性は、生き延びるためのヒントに見える。 「黙っていられない」としたら、そこには主意主義的契機がある。
    • しかし、「ひきこもりについて考えているうちにどんどんしんどくなっていった」という人もいる*5。 私にもそういう時期があった。 この違いは何か。


  • 欲望は、過剰性において成立する。 過剰性を抜き去ったら、それは欲望であることをやめる。→ 意識的な努力において過剰性を実現することはできるか?
    • たとえば私の場合、アニメを見ながら「またかつてのような過剰性が復活しないかな」というシタゴコロが常にある・・・・が、無理。


  • 支援者も、被支援者も、自分が生きてしまっている欲望の事情について、自己分析的に、自己言及的に論じる必要がある。 【cf. 樋口明彦政策対象としての動機づけ」】
    • それができないと、「自分の欲望は正しい」というベタな思い込みに安住することになる。 それでは、欲望の正当性を無際限に自己検証してしまう「ひきこもり」を考えるには、必要な要素を欠いている。 「他者の欲望の多様性」を尊重することも難しい。 ▼ひきこもり論において、私の欲望は、必ず誰か他人の欲望に関与してしまう。
    • 「現場のミッション」と、「言説のミッション」は違うはず。 さらに、それぞれの専門性がさらに細分化される。 【cf.「制度と個人――多様性」】




*1:特に、歴史的ないきさつや、自分の直面した問題が大局的に持つ意味など。

*2:この件については、最近の友人たちとの議論が非常に参考になっている(言葉遣いやモチーフなども含め)。 ▼《欲望》 《専門性》 をめぐっては、それぞれで立場が違っているのだが、その相違を子細に検討することに意味があると思う。

*3:多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで』p.260〜

*4:参照: 村上龍13歳のハローワーク

*5:永冨奈津恵氏が、石川良子氏(と思われる)の研究に批判的な理由。 【参照