「借りを返す」奇跡

 昨日のコメント欄で、id:CharlieGordonid:hikilink、debune、の三氏によって、「恩返しする」「借りを返す」という興味深い発想がもたらされた。俎上にのぼっている中塚尚子氏の論文「『借り』を返したい」(『ひきこもる思春期』ISBN:4791104757)を読んでみたが、そこではこの「借りを返す」というテーマは、社会的不適応に苦しむ当事者たちの「万能の核が満たされる」奇跡との関係で語られている(映画『ギャラクシー・クエスト』における「これは現実なんだ! キミたちの知識が必要だ!」)。
 id:CharlieGordon氏のいう「恩返し」が有効な視点であると思われるのは、そもそも「恩返ししたい」と思えている時点で、その人は自分の感謝の対象を通じて「世界」や「自分の過去」と和解し、もって自分自身と和解できているように思える点だ。・・・・ただし私見では、危惧されるのは、こうした「感謝」を安易に持ってしまうことで、本来問題にすべきであった過去や世界との関係、本来そこで葛藤すべきであった諸問題についてまで、ないがしろにされてしまって、いわば政治的にトッポい、「都合のいい存在」になってしまいはせぬか、ということ。(私にとって、政治的葛藤は、ひきこもり問題の核心に位置することだ。)
 いっぽう中塚氏の指摘する「借りを返す」であるが、私はこれを、「万能の核が満たされる」経験との関係においてではなくて、上記の「敵との対峙」において考えてみたい。
 ひきこもり当事者は、その引きこもり経験において、どうするすべも持たぬまま、自分の肉体に閉じ込められ、いわば自分を放置している。そこでは自分や自分の本来大切にすべきであったはずのものは放置され、ないがしろにされている。 → ヒキコモリを内在的に語りつつ社会参加すること(論争的に社会に参加すること)を通じて、それまで放置されたままだった自分の中のあれこれの葛藤や価値は、蘇生され、はじめて「大切に扱われた」ことになる。私はこれを「借りを返す体験」と表現したい。そこでは「敵への対峙」において「大切なもの」が賦活され、それへの感謝とともに「借りが返される」のだ。(そのときに「これは現実なんだ! キミたちの知識が必要だ!」は、「万能感の実現」とはまた違った意味を帯びるだろう。)
 ・・・・って、中塚氏の挙げている『ギャラクシー・クエスト』においても、「借りを返す」チャンスは「異星人という敵」との対峙においてもたらされたのだった。どうやら私たちにおいて、「真に大切なもの」は、「敵への対峙」において初めて切実に体験されるのではないか?(ひきこもり当事者が世界全体を敵に回して自分ひとりだけを貴重なものと考えがちなのも、こうした構図ではないか。) わかりやすい敵の出現において、私たちの存在と技能はフルにその意義を発見し、もって体中にエネルギーがみなぎるのではないか。*1
 敵を知らない労働は、たぶん大切なものも見出せていない労働だ。


 私たちがつねに虚無感に襲われるのは、<存在>(ハイデガー)は、それそのものとしては「感謝」とも「恩返し」とも無縁な、無頓着で無慈悲な成立でしかないからだ。どんな悲惨な出来事も可能であり、どんなに貴重なものでも無慈悲に流され抹消される。徹底的に無慈悲な「痕跡の漂白」。「そっ、そんな!・・・」という叫び声を救済するのは、私たち生きた人間だけだ。
 いや、「大切なもの」は、各人が自分で見つけるべきなのかもしれない。各人が本当に納得して「自分の大切にすべきもの」を見出した時にこそ、その人なりの「論争的社会参加」が始まるのだろう。その人独自の、自立の道が始まるのだろう。その「大切なもの」は、「大自然」だろうか、「イジメられていた自分」だろうか、それとも他の何かだろうか?

*1:滝本竜彦氏の小説が思い出される・・・・