私をテキに対峙させる単語

 何人かの支援者・当事者・ご家族から、「ひきこもり」という単語はあまりにネガティヴで印象が悪いから、使いたくない、使ってほしくない、という声を聞いた。「ヒキコモリという単語は、必要以上に当事者を型にはめ、押さえつける有害な概念だ」。
 この言い分に、実は私も動かされている。「ヒキコモリ」は、「オタク」ほどには居心地のいい分類ではない(今のところ)し、そもそもその状態から抜け出したがっている人が多いのだ。できれば、「引きこもり」などというスティグマは受けたくない。
 『「ひきこもり」だった僕から』(ISBN:4062110725)などというタイトルで実名で本を出してしまった私にとって、これはかなり切実な話。事実私の母は、このタイトルに断固反対し、この本を出したことは私の人生にとって極端に不名誉でマイナスになることだ、と心配してくれている。
 私自身は、本を出したことがプラスであるのかマイナスであるのかは、今後の私次第だと思っている。私が「ひきこもり」に参加的姿勢で臨むのか、それとも隠すべき恥辱の過去として封印してしまうのか。実は私自身、今後どう転ぶのかはわからない。
 ただ、もし「ひきこもり」問題に積極的な参加的姿勢を示すのなら、私は「ひきこもり」を――上に記したように――内在的に語り、そこから自分と他の人の社会参加の道を探れないか、と思っている。その際、やはり理論的・あるいは文化的考察も行ないたいのだが、仮に「ひきこもり」という言葉を外してしまったら、私の言葉は――ありがちの理論的「ひきこもり論」と同様――「ひきこもりについて論じる高尚で空疎な言葉」になってしまわないか。「ひきこもり」という言葉の留め金にいつも還って来ることにおいて、私の考察は「切って血の出る」、自分の実存と存在とを賭けた話になるのではないか。(自分の実存とは関係ないところで難しい話をしているだけの人が多すぎるのだ。)
 というわけで「ひきこもり」は、私にとっては自分の理論的良心が地上との接点を結ぶ留め金のような単語なのだが、こうした考えはダメなのだろうか。

 僕はじぶんの価値基準をいちばんはっきりさせてくれるものは「敵」の存在であると考えています。*1

 私にとって「ひきこもり」は、自分にとって最もつらい傷であると同時に、最も効率的に自分の「敵」を招き寄せる単語でもあるだろう。私はたぶん、「ヒキコモリ」という嫌な単語を通して、最も対決すべき「テキ」に対峙するのではないか。