嗤えない日本のヒキコモリ

 北田暁大氏の「嗤う日本のナショナリズム」(『世界』11月号)を立ち読みした。そこから考えたこと。
 北田氏の指摘する「裏リテラシー」とそこから発生する「繋がりの王国」は、ともに「ひきこもり当事者」にとってはまさに鬼門となっている現象ではないだろうか。
 たとえば次のような指摘。

 とんねるずといえば、80年代を象徴する「じぶん探し系」の領袖だ。彼らの笑いは、楽屋落ちや内輪ウケの延長線上にある、一種のコミュニケーション芸である。*1

 私は斎藤環氏の言う「じぶん探し系」という命名には疑問を感じているのだが(内容の空疎なコミュニケーションに興じる彼らは、その接続感覚において充足し終わっているのではないか?)、「ひきこもり系」に対置されたとんねるずの芸風に――そしてそれに近いセンスの友人たちに――80年代〜90年代の私がひどい嫌悪と疎外感を感じていたのは確かだ(もちろん今もだが)。そんな「繋がりの王国」には、「入っていけない」、いや「入っていきたくない」。周囲との連帯感を保証するフレームを自分の内にインストールしたくない(というかできない)、そこから来る社会的不能感(「自分だけは入っていけない」)。
 2ちゃんねるには「ヒッキー」という、ひきこもりを主題にしたカテゴリもあるのだが、そこに現れる「ナショナリスト」はひきこもり当事者を全体として(外在的に)差別の対象とし、「ヒキは氏ね」「ゴミども」「いいかげん働け」といった発言を繰り返す。だがそれはどちらかというと少数派で、スレッドの大半を占める(当事者自身による)内在的語りは、「女ほしい」「ゲームも飽きた」「これからどうしよう」「死ぬしかないのかな」といった無力な反省的自意識の吐露でしかなく、しかしそこには「その無力感ゆえの連帯感のフレーム」も生じにくい。
 ひきこもり当事者は常に「世間の見方」と「弱すぎる自分」との間で引き裂かれているので(id:migel:20031011)、たとえば「30にもなって」「やっぱ仕事しない奴はクズだよな」などとくり返し「自分の中の世間」にあたる「連帯感を保証するフレーム」を持ち出してくるのだが、そこですぐに持ち上がってくるのは「でも自分はそんな社会の常識に入っていけない」という不安感であり、この不安感の方が勝ってしまうため、いわば「自己内差別」にあたるフレームは維持されない。同様に、「当事者が他の当事者を差別するフレーム発言」である「いい年して」「30にもなってヒキってるなんて氏んでください」といった若年層による年長者批判も、若者独特の「自分は年を取らない」といった幼稚な感覚にもとづくものであり、「自分はひょっとしたら一生この状態から出られないかもしれない」と恐怖している多くの当事者たちはこのフレームにも乗ってこない。
 かくして、2ちゃんの「ひきこもり板」においては、当事者以外や一部の当事者によってくり返し「連帯感を保証する差別的フレーム」が提示されはするのだが、そこで差別されるのは自分たち自身であり、その構図の継続は激しい恐怖を引き起こすので、連帯感は維持されない。そこには「自虐的アイロニー」はあるかもしれない(「もうダメぽ」)が、「ロマン主義」はあり得ず、ただ怯える人たちの「とりあえずの寄り集まり」があるだけだ。
 唯一、北田氏の指摘したような「シニカルなロマン主義」があるとしたら、それは「支援者」たちへの態度においてだろう。たとえば斎藤環氏はニュース板における「朝日新聞」であり、氏のスレッドは「信者」と「アンチ」に二分される。斎藤氏を支持する「信者」はナイーヴな「サヨ」にあたり、「アンチ」たちはまさに北田氏の言う通りの陰謀説を披瀝する(もちろん斎藤氏のかわりにタメ塾、ニュースタート、あるいは他の個人、といった権威的存在が来ても事情は同じ)。ひきこもり当事者は社会的にあまりに弱く孤立した存在なので、表立って「支援」を表明しているすべての個人や団体が「権威」として料理される。しかし――ここが大事なのだが――そこでは他の板にあるような楽しいお祭り気分は希薄で、「アイツら(支援者)がヤバイ存在ならば、まさに俺たちは何をされるかわからない」といった恐怖が常である。「朝日新聞」を叩くときのようには、彼らは支援者を「自分には関係のない存在」と楽観して捨てることができない。「直接、自分に働きかけてくるかもしれない」存在なのだ。
 北田氏は論文の最後で、シニカルなロマン主義に別の語りを対峙させる可能性を示唆して終わっていたと思うが、自分がシニカルにネタにした権威的存在(支援者)が「自分に襲いかかってくるかもしれない」と恐怖する引きこもり当事者の精神に、積極的なヒントを見出すことはできないだろうか。シニカルになりきれない、怯えたロマン主義・・・・。彼らはその「おびえ」ゆえに、批判的発言を摩滅させられない。彼らはその「おびえ」ゆえに、「状況への参加者」たる自覚を捨てられないのだ。


 「ヒッキー板」以外でも、2ちゃんねるのユーザーにはひきこもり状態にある人が多いと思う。しかし、他の多くのシニカル・ロマン主義ユーザーと同じく、ひきこもり当事者は「支援者」について語らない限りは「世界」やその他もろもろの事象について「他人事」として、メタな次元から語り得る。このスイッチの切り替えは、匿名掲示板では(ひきこもりに関係なく)当り前の操作なのだろう。