「語られる」存在から「語る」存在へ

 これまでのところ、引きこもりは、外的な視点から「語られる」だけの存在だった。仮に当事者が「語る」ことを許された時であっても、それは「私、苦しいんです」というような素朴な真情吐露が許されるだけであり、外的観察視点が我が物としているであろうような理論的な枠組みに口を挟むことは許されなかった。(これはもちろん、いろんな精神疾患や、カテゴライズされた社会的マイノリティについても言える事情だろう。) 2ちゃんねるのヒッキー板などを見ていると、こうした「自分たちの外部にある、観察し、排除し、治療しようとする視線」に対する警戒と敵意が見て取れる。当事者は、「観察者」の視線に対話的に合流することができないと感じている。それが、支援者に対する恐怖を肥大させたりもする。(実際に、恐怖すべき「治療者」もいるのだが。権威的な精神科医や、「2時間で治る」と豪語する長田某など。) 外在的な観察視点と当事者たちの内面的な苦しさとの解離が、当事者たちの疎外感を増幅し、自分たちの社会的処遇への不安を増幅していることは間違いない。
 思うに、当事者たち自身が、自分たちの苦しみや存在に内在的な議論を展開するべきではないか。そうしてその内在的な議論は、これまで私たちを観察していた「理論的視点」をも自分たちの内に取り込み、消化して、これまでの「観察者」との対話をはじめるべきではないか。あるいはこう言ってよければ、そうした「観察者」たちとの関係において、「論争的参加」を試みるべきではないか。
 これまで当事者に与えられた発言権は、「当事者ゆえ」の無条件のものであり、それゆえ実はその語りの内容そのものはどうでもよかった(問題にされなかった)。「当事者が語る」というその形式だけが重要なのであり、「内容」については相手にされていなかったのだ(せいぜい、観察者/支援者たちの理論的枠組みを補強するネタ提供だった)。私の言う「論争的参加」は、こうした当事者への「無条件の受容」を取り下げつつ、逆に内容面において対等な承認を求めるものだ。差別や保護の対象としてではなく、論争の相手としての存在を承認されること。(ただし、多くの当事者の境遇においては、「無条件の受容」さえもが機能しておらず、当事者たちはただ単に追い詰められている。こうした境遇においては、まずは「無条件の受容」が必要だと思う。それは、「論争する声」が当事者の中に準備されるためにも。)
 当事者は、「当事者だから」承認される段階から、「たしかにいいことを言っているから」承認される段階へシフトすべきだ。それは、「語られる存在」から「語る存在」への変貌である。(繰り返すが、そこには対等な自由競争の厳しさがある。保護の対象ではないのだから、「認められない」かもしれないのだ。) 当事者の豊かな語りと論争的参加によって、「理論 → 対象」の硬直した観察図式を掘り崩すこと。
 実はこれは、「ひきこもりの焦燥」とはまた別の、独特の焦燥感を身に抱えることでもある。対話的な言葉の関係に投げ込まれることによって、私たちは「もっと読まなきゃ」「もっと語らなきゃ」という生産的な焦燥に目覚めることだろう。――こうなれば、あとは各人が自分の流儀で自分の文脈に応じた論争的参加を試みればいいのであって、私の思うに、これこそが「自立」ということではあるまいか。「社会的自立」というのは、なにも社会に迎合しろ、ということではなくて、社会に向けて対話的・論争的に参加してゆけばよい、ということではないのか。当事者特有のやっかいな自意識は、「そんなもの気にするな」という説教によってではなく、状況への対話的・論争的参加を通じて消えていくのだと思う。


 id:Ririka:20031011に、「ひきこもりは動物化だ」という主旨の発言がある。これは言うまでもなく「外から観察した記述」だ。いっぽう彼女自身が記している「当人が望んでそうなったのではない」という記述は、単なる外的記述ではなく、いわば内面事情を想像したものになっている(東浩紀氏の「ひきこもりは人間的である」という発言も、やはり当事者の内面事情――より正確には内的な情報処理事情?――を語ったものであり、「彼らは社会的にはどういった存在になっているか」という記述ではない)。「ひきこもりは親に養われた動物的存在だ」という外的記述が先行してしまうのは、id:Ririka氏の責任ばかりともいえず、やはり当事者の内在的語りが貧困すぎるのだと思う(支援者の語りは貧困かもしれないが、それより何より当事者の語りは貧困なのだ)。――ただ、実は社会には「ひきこもりなんてまとめて屠殺しろw」などというまさに当事者を「動物視」した罵倒も存在しているわけで――そんなものは2ちゃんねるでしか見たことはなく、また実際に「屠殺」できるわけもないのだが、「殺してしまいたい」という衝動が実際に社会の一部に存在しているのは否定しようもなく―――、「動物的」という外的記述の強調は、ひきこもり当事者の置かれた政治的状況にとってきわめて不穏なものだと言わざるを得ない。もちろん、状況と議論の文脈によってはRirika氏のような議論もすべきだが(実際私はその指摘から刺激を受けた)、ただ、ひきこもり当事者をどう記述するかというのは、とても政治的な問題なのだということには自覚的でいたい。