自分の当事者性を棚上げしないでほしい。

先日ある地方で、《ひきこもり経験者》という枠でお招きいただいた講演会があった。
取材に来られていた新聞社のかた(Gさん)と、次のようなやり取りがあった。

上山: 今の私の活動趣旨は、それぞれの立場の方に《当事者発言》していただくことです。 たとえばGさんが、「入社して○年で直面する悩み」をお話し下さったら、すごく勉強になるし、ぜひ聞きたい。 記者として巻き込まれてらっしゃる仕事上の実態が、いろいろありますよね?
Gさん: そうなんですよ〜・・・



仕事をしている方の悩みは、社会復帰して働こうとした時に直面する実態だし、結局そこで議論するのでなければ、支援そのものが破綻する。

    • つまり「自分の当事者性」といっても、「あなたにも引きこもり傾向ありますよね」ではなく、「すでに生きておられる関係性それ自体の当事者」ということだ。 弱者性を強調するカテゴリー的な “当事者” は、関係責任としての当事者性をむしろ黙殺したがる傾向がある。



学者や支援者が “ひきこもり当事者” を特別扱いし、逆にそのことでご自分たちはメタ言説の担い手として特別扱いされ不問にされるという関係マネジメントでは、何も変えられない。 既存の関係実態は、苦痛のメカニズムそれ自体だというのに。


相手を昆虫のように「観察」し、“知的な議論” に入る前に、まずご自分たち自身の関係がどうなっているか、そこを当事者的に分析してもらえませんか*1
「この人は当事者」「この人は違う」という切り分けを、単なる便宜上の線引きを超えて過剰にやり始めると、その引かれた線自体が私たちを縛り始める。 むしろ改編の試行錯誤にこそ、新しい関係性があり得るかもしれないのに。



*1:「ひきこもり」や「地方のヤンキー」を語る前に、「社会学者どうしの関係」「研究者と研究対象との関係」を論じるべきでは?