- 「内部化する」は「社会化する」*1にあたる。 → 「家の中にいたままの社会化」なのか、「家を出す形の社会化」なのか。
- 法的に「家の中にいる権利」を主張したとしても、経済の実情がそれを許さない、ということはある(有限の税金財源をどう割る振るか)。 家庭内のひきこもり・ニートにおける「価値観論争から経済的逼迫へ」という展開は、そのまま国レベルにも言える。
- 経済的にもたないとすれば、全体的破滅を回避するには、どこかで≪教育的≫な強制的要因が必要になるのではないか。(cf. → 「都立高校「奉仕」必修へ」、 記事への言及) 【→ 参照】
- 「目の前の一人への支援」でできること*2。 「制度を変える」ことでできること。
- 先日のイベントで触れられていたらしいが、これだけ多数の「ひきこもり・ニート」については、「放置する・再教育する」といったことが、「社会的コスト」の問題として検討される。 差別的放置による結果被害が甚大であると判断すれば、人道的観点によって*3ではなく経済的(国益的)観点によって、再教育や「差別撤廃」等々の対処が検討される。 【「ニート税」等々といっても、それが結果的に膨大な数の当事者を追い詰め別の「損害」を生み出すとすれば、わずかに徴収したニート税など吹き飛ぶ。】
- 危機的な社会問題への取り組みが正当化される際、その説得は「合理的」に行なわれるとは限らない。 さまざまな「心情的」装いを持つ。 それが「合理的説得」よりも「草の根の説得力」を持ってしまったりする。
- 「ひきこもり」が問題化しても予算がつかなかったのに、「ニート」にはあっという間に231億円の予算がついた。 ホームレス2万5000人、 自殺者3万5000人への対策と比較しても桁外れ。 どういう事情の違いか。