「中立」のあり得なさ、戦線の複数所属

  • 「ひきこもりについて論じる」は、すでに「戦う努力」になる。 「客観的・中立的なひきこもり論」はできない。
    • これは、『当事者主権』ISBN:4004308607 で記述された「当事者学」の基本特徴。 「客観性・中立性」を要求されれば、「当事者学」自体が成り立たない。
    • ≪コミュニケーション≫ → 「共闘」*1と「批判」。 「コミュニケーション」とは、「仲良しごっこ」だけではない(というか、無条件の融和を前提すれば、かえって「コミュニケーション」は成り立たない)。
    • 「問題のツボの共有」は、必ずしも「意見の共有」ではない。
    • 「ひきこもり」ほど、戦おうとする当事者個々人が孤立してしまうジャンルがあるだろうか…。 「論点の共有」すら、なかなかできない。 → 身も蓋もないが、「ひきこもり」というのは、≪たたかう≫ことにおいて最も拙劣な者たちなのだ…


  • 「たたかう」と言っても、おそらく所属戦線は単数ではない。 核となるテーマはあるかもしれないが(みずからの当事者性や切実さが最も強調されるテーマがそれにあたるか)、一つのテーマに取り組もうと思ったら、考慮しなければならない論点は複数出てくるはず。 「ひきこもり」ではとりわけその感が強い。 ジェンダー、年齢差別、労働環境、社会的排除、……*2
    • 「ひきこもりというテーマにとっては、どんな論点を用意しなければならないか」を整理するだけでも、一仕事。 → 僕は「新しい論点を出す」というよりも、ひとまず著書や当ブログでこれまでに出してきた論点を整理する仕事に回るべきかもしれない。
    • 「何に腹を立てるか」に、自分が一番よく表現される。
    • 「たたかう」というとふつう「現世に勝ち残る」ことが前提だが、ひきこもりの場合、「現世から退却したい」というベクトルすらある。 → 「弱者は、死にたければ首を吊れ」というだけなら論点にすらならないが。 負け組の自殺は、「悲惨の中に放置される」べきか。






*1:この単語をギャグ以外で使うのは、やっぱ無理かなぁ…。

*2:すでに論点が重なってる