バラバラ、順応、創る

  • 「当事者」は一枚岩ではない。
    • id:matuwa さんのご指摘。 これについては僕もくり返し指摘してきた。 社会生活を送っている人がバラバラであるように、「ひきこもり当事者(経験者)」もバラバラ。 ついでに言えば、支援者もバラバラ。 共同戦線と呼び得るものは(まだ?)ない。
    • 「ひきこもりであるか否か」という状態像における帰属ではなく、「論点を共有できるか否か」という論点帰属(?)だけを考えるべき【 → 「自称ひきこもり」】。 当事者であっても敵であり得る。 当事者でなくとも味方であり得る。
    • 僕は神戸で大震災に遭ったので、他府県のかたから見れば「被災者」の1人だが、神戸の住人同士のあいだでは、微妙なところもある(家族が死んでいないのに「被災者」を名乗れるか?など)。 → 経験も違っているし、たとえ「同じ経験」をしていても、それに対する思想(態度)が違うことがある*1


  • 「順応」と「たたかう」
    • 「稼げるやつが強い」という既存価値観とどう付き合うか。 → 「自分も稼げるようになる努力」と、「稼げなくてもいいじゃないか」という主張とを同時進行させる必要がある。
    • 「順応」だけを考えていると「治す」という発想だけになる。 しかしむしろ、「戦い始める」を目指すべきではないか? 治療とは、「本人が自分のたたかいをできるようにする」ことではないか。 「洗脳して順応させる」のではなく、「君は君の論点でたたかいを始めろ」。 → 「戦わずとも生きていける状態を実現したい」は、さすがに無理な願いなのか…。


  • 「創る」要因と、「たたかう」要因
    • 「創る」要因がないと、やみくもな自己防衛の消耗戦だけになる。 ひきこもりに関しては、これではどうにもならない。 「PICSY はどうだろう」など、新しい選択肢の創出と実演が不可欠。
    • (何度も言っていることだが、)「本当にいいものを創り出す」のが、最善の戦略のはず。






*1:「犯罪被害者」にも、同種の事情があると聞いている。