- 「ひきこもりを論じることを論じる」必要がある。
- chiki さんが、「反ジェンダーフリー言説」のリンク集を検討されている。 同様にして、「反ひきこもり言説の事例集」を類型化する必要が、やはりあるか*1。 → そのサンプルの多くは、ひきこもり当事者(経験者)から提出されている。 「ひきこもり脱出組」の多くは、さらに強烈な「反ひきこもり論」を提出している。
- ひきこもりは、単に擁護すればいいのではない。 擁護そのものは、サバイバル(あるいは現世からの退却)努力の一部でしかない。 「自分たちで問題に取り組み、成果をあげてゆく」努力が、どうしても要る。
- 「メタ(だけ)に立てる」と思うのは間違い。 僕らはすでに、オブジェクト・レベルで利害関係に巻き込まれている。 本気で「巻き込まれたくない」と思うのなら、死ぬしかない。 いや、じつはそれでも周囲に(わずかだが)影響はある。
- 自分なりに戦う努力を続ける中で、その論点を共有してくれる、もっといえば「いっしょに戦う」要因を部分的にでも共有できるときにだけ、性愛対象*2との(維持可能な)関係はあり得るのではないか。 直接相手を目指しても、ダメだと思う(引かれるだけ)。
*1:それにアクチュアルな緊張感を感じられないほど、僕は(当事者の多くは)絶望してしまっている感がある。 しかし、「反抗を放棄した人に対する攻撃には、歯止めがきかない」(玄田有史)。
*2:「異性」と言ってしまうと同性愛を排除してしまうと思ったので、こんなふうに言ってみた。
*3:何を語っても、このレベルでしか受け取ってもらえない徒労感…。