「論じることを論じる」、性愛、シニシズム

  • 「ひきこもりを論じることを論じる」必要がある。
    • chiki さんが、「反ジェンダーフリー言説」のリンク集を検討されている。 同様にして、「反ひきこもり言説の事例集」を類型化する必要が、やはりあるか*1。 → そのサンプルの多くは、ひきこもり当事者(経験者)から提出されている。 「ひきこもり脱出組」の多くは、さらに強烈な「反ひきこもり論」を提出している。
    • ひきこもりは、単に擁護すればいいのではない。 擁護そのものは、サバイバル(あるいは現世からの退却)努力の一部でしかない。 「自分たちで問題に取り組み、成果をあげてゆく」努力が、どうしても要る。
    • 「メタ(だけ)に立てる」と思うのは間違い。 僕らはすでに、オブジェクト・レベルで利害関係に巻き込まれている。 本気で「巻き込まれたくない」と思うのなら、死ぬしかない。 いや、じつはそれでも周囲に(わずかだが)影響はある。


  • 自分なりに戦う努力を続ける中で、その論点を共有してくれる、もっといえば「いっしょに戦う」要因を部分的にでも共有できるときにだけ、性愛対象*2との(維持可能な)関係はあり得るのではないか。 直接相手を目指しても、ダメだと思う(引かれるだけ)。
    • 「性愛がゴールで、≪お付き合い≫のために(もてるために)戦うのか?」と言われそうだが、もうこの辺は水掛け論になるのでやめておく。 ただ、真剣に考える努力がどの程度のものなのか、その程度のことはお互いに見抜けるのでは?
    • 僕が当ブログで女性に対する支持的な発言をするたびに、その≪裏の意図≫を詮索する向きもあるようだが、それは僕に対しても、相手の女性に対しても失礼極まりないということは指摘しておく。 【「女といちゃつきたいだけだろw」と言っている人には、「性愛」以上の課題設定が思いつかないのだろう。 それも「シニシズム」の一側面ということか。*3






*1:それにアクチュアルな緊張感を感じられないほど、僕は(当事者の多くは)絶望してしまっている感がある。 しかし、「反抗を放棄した人に対する攻撃には、歯止めがきかない」玄田有史)。

*2:「異性」と言ってしまうと同性愛を排除してしまうと思ったので、こんなふうに言ってみた。

*3:何を語っても、このレベルでしか受け取ってもらえない徒労感…。