- 「女は女らしくしろ」、「若者は若者らしくしろ」とか言ってる人と、「ひきこもりはけしからん」とか言ってる人とは、かなりの程度重なってるんじゃないか? → やはり≪健康≫という、あの我慢ならない思想か。
- 「健康であれ」という命令には恐ろしく抑圧的なものがある。 だから「健康」という言葉は使いたくないのだが、(「病気」というのとはちがう、)どう考えても「おかしい」人はいる。 → 人間を、既存のカテゴライズ(生まれ・学歴・社会的地位など)とは別の目で、つねに見分ける必要がある。 「すべての人がすばらしい」わけではない。
- 当然ながら、どの個人においても「評価すべき瞬間」と「そうではない瞬間」がある。 だが確率的に「評価すべき瞬間」の多い人と少ない人とがいて…。 → やはり「レッテル」によってではなく、その都度の「言動」によって批判すべきだし、変化可能性への希望は残したい。 しかし、「確率の低い人」については、毎回の発言に誠意を持って耳を傾けようとするこちらの開放的努力は、ほぼ確実に裏切られる。 「心を開いて相手の話を聞く」には、ものすごいエネルギーが要るし、それはこちらがズタズタに傷つくかもしれない大変危険な行為。 可処分エネルギーも、心のキャパシティーも有限なのだから、「心を開くべき相手」はピンポイントで限定していかざるを得ない。
- 「毎回の発言」をその都度問題にすべき、というよりは、その毎回の発言を規定している「思想の構造」みたいなものが問題ではないか。 → 僕自身についても自己検証すべきだろう。
- ある種の人から見たら、僕などは「病人」、あるいは「オカシイ」のだろう。 倫理的・思想的に「立場が違う」と感じた相手を差別する不毛さ。 → このヘゲモニー争いは、永遠に終わらないんでしょう…。 そして引きこもっている者(あるいは経験者)は、つねに分が悪い。
- (繰り返しになるが、)実のところ、こちらが努力して対話的緊張関係を維持するに値するほどの生産性や開放的姿勢を保つ個人は、ほとんどいない。 多勢に無勢、開放的姿勢を保とうとする個人のほうが受傷的だから、「開放的な場」は、悪辣な態度によって容易に破綻する(単純な話、良心的な人間よりは、悪意ある人間のほうが饒舌だ)。 → むしろ、信頼できる人間だけの閉鎖的サークルのほうが生産的なのか? 生産的内部空間と、開放的新陳代謝のバランスの、難しさ…。
- 僕は僕で、自信を持って何かを支持し続けねばならないのだが、「これはいい!」と言い得る人・作品・活動に出会えず、かつ孤立し続けると、善悪の判断自体が見えなくなってゆく。 極端な孤立は、人の判断を狂わせる。 → 対話的関係は、積極的な相互評価の契機でもあるはず。
- 各人が、「評価に値するものを創り出す」という孤独な作業に没頭すべき。 ただし、「孤立」は避けるべきで、そのためには、お互いに「評価する」ということに臆病になるべきではないのだろう。 「評価しない」のなら、「それ以上のものを創ってみせる」こと。 代替案(作品・活動)を出せない、何物にも取り組もうとしない人間の愚痴や中傷合戦ばかりでは、何も始まらない…。
- そう、その「いいものを創る」没頭の、なんと難しいこと…。
「生産的なたたかい」だけでは、すまないわけか…。
というか、本当に取り組むべき課題設定 がいちばん難しいよ。 その設定の必然性に深く納得できれば、きっと夢中になれるんだろうけども…。