「コミュニケーション」 → 「たたかう」

chiki(id:seijotcp)さんよりいただいた「コミュニケーションしかない」という視点から考えていたのですが、そこであらためて、≪たたかう≫という要因がせり上がってきた。
12日のエントリーでは、僕は「コミュニケーション」の中に「たたかう」という要因を入れていない。 当ブログではくり返し「たたかう」という要因に触れてきたはずなのに、どうも僕自身がウンザリしていた ―― いやそれとも、「残された人生の時間のすべては、たたかうことに費やされる」という事実を、認めたくなかったか*1。 「ひきこもり」が、「最悪の形での政治的敗残」だとしたら(それが以前からの僕の主張だった)、「たたかう」という要因を無視できるはずなどないのに…。


今日はひとまず、メモ的に列記するにとどめる。 多くは、すでに論じたことの再整理です。 (以下、段落分けは便宜的なものです。 順不同。)









*1:宮台真司氏の本に、「先行世代の先駆的なゲイが、若い世代のゲイに煙たがられる」という話があった(掲載本を失念)。 ゲイの社会的受容のために確実に成果を出してきた、しかし悲壮感漂う(?)戦闘的な先行世代に対して、「ありがとう、でもウザイよ」ということか。 → 同性愛の場合、デザイナー・芸術家などの著名人や、「オカマ枠」と呼ばれたりする芸能人の存在が社会的受容基盤を作った面があるのかもしれない。 しかしひきこもりに関して、そんな受容ルートが今後あり得るか? あるいは「なしくずしの受容」が? むしろ今後はどんどん非寛容の方向に向かうように感じているのは僕だけか?