雑誌 『大航海』 第58号 特集:「ニート 転換する現代文明」

発売は2006年4月。 この特集自体は本当にひどいものだが、議論の雛形を示す資料として、以下のインタビュー(というか対談)を大まかに見ておく。*1

    ニートは労働問題ではない ――「自分探し病」という罠
             小田晋×三浦雅士 

このやり取りでは、『ニート ひきこもり/PTSD/ストーカー (心の病の現在)』(新書館)に掲載された小田氏の論考 ニート ひきこもり」 が土台として参照されている。





*1:p.60〜88。 以下、強調はすべて引用者。

「水増し正常化」と「境界性喪失」

小田: ぼくは現代の日本の精神病理のひとつの特徴は「水増し正常化」にあると考える。 精神病理の核心が薄らいでいって、たしかにここの症例も薄らいでいっている。 (略)
三浦: 「水増し正常化」というのは衝撃的な言葉ですね。 異常と正常の境界が曖昧になって、異常がどんどん正常と見なされてゆくということですね。

ご本人は「正常」らしいが、基準はわからない。

小田: ぼくは「境界性喪失の時代」といっています。 (略) 現実と非現実、正気と狂気、正常と異常、男と女、右と左といったような、これまで自分たちの生活を律していた対立軸が薄くなっている。 要するに境界がはっきりしなくなっている。 それは統合失調症的なメンタリティにとても近いものになってゆくわけです。

境界と対立が曖昧になってきた趨勢に対し、人為的にそれを強化・復旧すべきであるとする主張。





日本とアメリカ

小田: 子どもが成人しても親に寄生すること、いわゆる「パラサイト・シングル」をもっとも許容するのが日本です。 低いのがアメリカです。 アメリカでは、かなりの富豪でも思春期をこえた若者がうちにいると父親が自立を促します。 場合によるとピストルを突きつけて「出て行け」といいます。

「だから日本でもやるべきだ」という話だろうか。
以下、『ニート ひきこもり/PTSD/ストーカー (心の病の現在)』の小田氏の記述(p.20-21)より。

 日本の場合は「不登校」減少に行動の攻撃化が併発することがある。 つまり「家庭内暴力」が結びついてくることが少なくない。 だが、アメリカでは、日本のように若者が両親に暴力を振るったならば、父親はピストルをつきつけて「出て行け」というかもしれない。 子どもがピストルをもっていれば、父親はライフルをもってくる。 子どもがライフルをもっていれば、父親はマシンガンをもってくる。 子どもがマシンガンをもってきたら、父親はバズーカ砲をもってきて家ごと吹き飛ばす。 そういうことをしかねないのがアメリカの父親である。 子どももおちおち、ひきこもっていられない。

何回読んでも吹き出すのを我慢できない。





自己愛性人格

小田: 石川弘義さん*1が、一九八〇年頃、自己愛性人格がとても増えているといっていました。 自己愛性人格というのは現代人のひとつの適応パターンだというのです。 自己愛者は、自分の才能とか魅力とかに誇大な幻想をもっていて、それが傷つけられるのを嫌がる。 だけど、嫌がって閉じこもっていては、誇大な自己実現がいっさいできなくなる。 そこでヴァーチャル・リアリティの中で満足させようとする。 それがいきなり外部に突出してしまうと、「ひきこもり突出型犯罪」になるわけです。

自己愛性人格障害」は、ひきこもりを論じるときに常に出てくるカテゴリー。
自己愛それ自体を、「無力さと再帰性過剰流動性)に対する症候的リアクション」と理解する必要がある。
私自身は、「それでは交渉関係において不利になるばかりである」という枠組みで検討するのが有益だと思う(後述)。





*1:ナルシシズムの時代』の訳者。

「安心を与える技術」と巨大資本

小田: ぼくは、精神医学は人々の安全を保障し、人々に安心を与えるための技術だと思っているんですが、それがそうは簡単に思えなくなった。 (略) 首つりの足を引っぱるような世紀末思想が蔓延した。
三浦: それは今でもあると思いますよ。 精神医学は人間存在の不気味さ、異様さを示すことであってそれ以上でも以下でもない。 もしも精神医学が人々の安全を保障し人々に安心を与えるための技術であるとすれば、それは巨大資本の手先になることでしかない。

監視カメラなどが問題にする「社会的な安全」とは別の、「精神医学的な安全」という視点。
しかし、何が「安全」と理解されるのかは人によって違うはず。
巨大資本というのは製薬会社などか。





弱者カテゴリーと規範闘争

小田: あのころの新左翼思想は、労働者と農民に依拠して革命をなそうとした。 ところがいまや労働者も農民も・・・・
三浦: 貴族になっちゃった。
小田: そう、中産階級になっちゃった。 革命の原動力にはならない。 したがって、その中には入らないホームレスや犯罪者や少数民族、場合によっては精神障害者、そういうひとたちの反市民社会的なバイタリティに依拠して革命をおこそうと考えた。 その邪魔になりそうな精神医療、教育、家庭の規範力を失わせることが、彼らの価値観に合致した。

社会には弱者があり続けるので、「反市民社会的なバイタリティ」を仮託する対象は、カテゴリーを組み替えながらいくらでも調達できる。 ▼ただし、そういう運動論を単に揶揄すればいいとも思えない。 ベタな抵抗運動は、実際の弱者には必要な局面があるはず。――問題は、そういう運動論がつねに暴力的に硬直化してしまうこと。





「あるべき社会」と実存

三浦: 「心の病の現在」で一貫して小田さんが主張しておられることは、個人の精神病理が自己像の問題と密接にかかわっているのと同じように、社会の精神病理もまたあるべき社会像に密接にかかわっているということです。 あるべき社会像をはっきりさせないかぎり、社会の精神病理は深刻になってゆくということです。 価値基準の問題。

制度設計としての「あるべき社会」と、各人の実存の話を分ける必要がある。
私自身は、 (1)制度設計としては「多様性と公正さ」を、 (2)個人の実存としては「症候への同一化」を、 議論の枠組みとし始めている。
労働問題は(1)だけだが、それでは実存の弱体化を話題にできない。
またひきこもりでは、あまりにも極端な「交渉の拙劣さ(実存の脆弱さ)」が、交渉という社会的行為自体を破壊している。





「堅気の労働」と、納得の調達

小田: 「自己実現病」「自分探し病」といえるかもしれませんが、要するに特別な生き方をしないと生きている価値がないという考え方です。 情報化社会の生んだ病理です。 自分の存在価値を自分の情報化によって決めるという発想はクリストファー・ラッシュが『ナルシシズムの時代*1で指摘していることですが、ごく普通に働いて真面目に生きていく生き方をみんな毛嫌いしたり馬鹿にしたりするようになってしまった。 それはまた、いまの政治の問題でもあるのではないでしょうか。 小泉内閣がこれまでやってきたことは、結果的に、郵便配達や工場労働者や学校教師や運転手などの勤労者を減価することです。 構造改革規制緩和、小さい政府とか言いながら、彼らをどんどん身動きが取れないようにしていった。 堅気の労働をしている人たちの収入はこの五年連続して減っている。 で、政府が応援したのは、ヴァーチャル・リアリティを操作する人たちだった。
三浦: ホリエモン的なものですね。
小田: 虚偽の風説で巨万の富を掴むという連中ですよ。

「地味な仕事に価値を見出すべきである」という主張も、実存レベル(趣味・信仰・倫理*2)と、制度設計のレベル(法や税制)を分ける必要がある。
「人生への納得」を、どこから調達するのか。 そのための選択肢と制度的整備は。
小田氏は、経済と「国民の規範」を結びつけている。 経済政策は、倫理的選択でもあることをあらためて確認。





推奨されている規範

小田: とくに父親の存在が問題になる。 レヴィ=ストロースのいうところの「冷たい社会」*1、近代化以前の社会では父親は子どもにとっては雇い主であり教師であるわけです。 農業や漁業とかがそうですね。 たとえば歌謡曲で家族らしい家族を歌うときは、北島三郎とか山本譲二とか鳥羽一郎とかの演歌歌手は、「度胸船」とか「兄弟船」とか「おやじの海」とか、中小漁民が主役の歌を歌うんですよ。

演歌・・・





*1:人や規範の流動性が小さい社会。 承認されるべき感情や行動のパターンが決まっていて、安定している。

シニカルな洗脳

三浦: ヴィジョンをはっきり提示できなくとも、駄目なものは駄目だということをはっきりさせなくちゃいけない。
小田: ぼくはシニカルですからそこまでは言えないんです。

自分を「シニカル」といいながら、
キャンプによる野外学習については*1、次のように語っている。

小田: ここで面白いことがわかった。 五人の班のうち、不登校の子どもがひとりだけまじっていたら非常に効果的だということです。 これだと治療実績は七五パーセントにのぼるんです。 これは不登校治療においては脅威的な数字です。 (略)
 このキャンプ療法がなぜ効果的かというと、まわりから遮断されているでしょ、だから洗脳しやすいんですよ

「治療」「洗脳」という言葉がふつうに使われている。





行動療法について

三浦: (全共闘の)頃にいちばん流行っていたのは「オルグするにはデモに連れていけばいい」ということだった。 まずデモに連れていく。 説明なんて抜きですよ。 デモに行って、向こうに機動隊が見えて、わっと機動隊に追いかけられれば、つぎの日からものすごく熱心な同志になる。 失恋とか自殺とか、うじうじした問題はふっとんじゃって、筋金入りのニューレフトに生まれ変わるんです。
小田: 行動療法的なやり方ですね。
三浦: そうです。 右翼だろうが左翼だろうが、つまりナチスだろうがスターリニストだろうが金日成だろうが、ぜんぶ同じやり方なんですよ。
小田: だからね、なんにもしないで子どもの成長はうまくいくかというと、いまのようになっちまう。
三浦: そうはいかない。(笑) 行動療法なんてのは人間に対する侮辱ですよ。 そのジレンマを解決するためにも精神と身体の重層関係を解明しなきゃ。

三浦氏に同意。 ただし、行動療法で元気になれる人の確率はゼロではないだろうし、そういうことを試してみる選択肢はあったほうがいいと思う。 問題は、それが公的かつ大規模に強制される場合。





「地域共同体を復活させよ」

小田: ぼくが共同体の価値の回復を言いたいのは、たとえばこういうことがあるからです。 (略) NHKの「ふるさとの伝統」を主題としたドキュメンタリー番組。 田舎でいまでもお祭りの習慣が残っているところで、そのお祭りを受け継ぐように大人たちが子どもたちをどうやって仕込んでいくかという生活を追ったものです。 ぼくはこんなにいい社会教育はないと思った。
三浦: ぼくは非常に疑問ですね。 小田さんご自身が共同体の中にうまく溶け込んで教育されていたと思われますか?
小田: うまくいっていませんでした。

笑い話にしか見えない。

小田: ただね、ぼくはお祭りに期待したい。 ぼくはお祭りが好きなんです。 ぼくのふるさとの伝統はお祭りです。
三浦: 育ったところはどこでしたっけ?
小田: 岡山です。 (略)
三浦: 岡山の共同体はとってもよかったですか?
小田: よかったが岡山は町ですからね。 あまり近所づきあいはない。
三浦: そうでしょう(笑)。 近所づきあいがなくて、どうしてぼくのふるさとの伝統はお祭りですなんて言えるんですか。 だいたい知識人に地域的な付き合いなんて無理ですよ。 隣近所のほうが敬遠する。 はっきりいって毛嫌いしますよ。
小田: ぼくは地縁的なものを大事にしていきたいといま思っているんです。
三浦: 懐旧の念で見ているだけですよ。 ご自身の体験と照らし合わせてみると、それが自己欺瞞であることがすぐわかります。 いま小田少年にそれを強制したらアレルギーを起こして、それこそひきこもりになってしまいますよ。 それより、サークルでも何でも、なんらかの有機的な結合をもつ組織をどうやって作るか考えたほうがいい。

中間集団を形成する難しさについては、東浩紀×北田暁大東京から考える』でも触れられていた(p.208-9)*1。 外部から押し付けても無理。 偶然的な集団を維持する「必然性」が見えない。
ここでも三浦氏の言うことにはリアリティがあって、地元住民との親密な関係を強制的に要求されるのでは、その地域を離れたくなってしまうのでは・・・。





*1:東浩紀: 九〇年代後半には、会社や学校のような中間集団がぼろぼろ崩壊し、ナマの個人がいきなり荒々しい資本に直面することでアノミーが生じた。 (略) いまコミュニティの復活というと、ほとんどセキュリティの話ですね。 防犯や防災。 (略) 単純だと思われそうですが、ひとつ考えられるのは、いま流行のコンテンツ系やIT系、つまり知的な職能集団ですね」

「いやだと思わないような人間を作らねば」

小田: でも、やはり地域共同体は重要だと思うんですよ。 (略) ニートの連中に関しては、準拠集団をつくらなきゃいけないし、準拠集団をつくるのをいやだと思わないようなオリエンテーションを与えていくべきだと思います。

準拠集団の自発的形成を模索するのではなくて、「外側からあてがわれた集団に反抗しない精神を作り出すべきだ」という話になっている。


そこで準拠すべき集団は、「常勤労働者の労働組合」らしい。

小田: 戦前の日本はいいとはいいにくいですね。 なぜかといえば戦前の日本は労働組合がない社会です。 労働組合がない社会は、下の人間の権利はほとんど尊重されない社会です。 だからぼくは、昔に帰れと言っているわけではない。
三浦: 新しいものをつくらなくてはいけない。
小田: 新しいものは、人間としてのぬくもりを尊重する社会だと思います。 それをなくしてしまうのが構造改革だ、と。 (略) 常勤労働者が企業への帰属意識をもつことができるような社会にしたい。 常勤労働者の比率が高い社会にしなければならない。

「共同体を作らなければならない」という規範がまずあって、「だから常勤者を増やせ」という順番になっている。 経済を顧慮していないことも含め、単純すぎて話にならない。
「人間としてのぬくもり」という言い方には、「誰も逆らってはいけない」という威圧を感じる。 ぬくもりを押し付ける人間にぬくもりは感じない。





徴兵制

シニカルな人がどういう言葉の使い方をするかを如実に示しているので、長いがそのまま引用する。(強調は引用者)

三浦: 小田さんはニートの問題は今後、どういうふうに発展してゆくと思っていらっしゃいますか?
小田: 有効求人倍率が一倍になったというのは非常に重要なことで、玄田有史さんたちが問題にしている失業問題としてのニートは減ってゆくということでしょう。 残るのは精神衛生の問題、メンタルヘルスの問題なんです。 これはたんに職業教育をやるだけでは解決しない。 短絡的に解決するには徴兵制度がいちばんいいけど、まさかそんなことをやるわけにはいかない。
三浦: 徴兵制度はぜんぜん解決にならないと思いますよ。 それは擬似的なものにすぎない。
小田: 解決しようと思えば、擬似的にでも解決したい。 イラクでも台湾海峡でも行って花と散って戦死してもらいたい
三浦: また極論だ。 そんなこというからみんなにやっつけられるんですよ。(笑)
小田: そういう話になっちゃうんですよ。 先日、麻生外務大臣が「ニュース・ステーション」で、「英霊の立場になって考えなきゃならない、戦死しても天皇陛下靖国にお参りに来てくれないのでは誰も国のために命を捧げなくなる」と言っていましたよ。
三浦: 恐ろしいですよ。
小田: こんな恐ろしいことを言っているのに、キャスターはそれを黙って聞いていたんですよ。 「あなた、国民に戦死してもらうために総理大臣は靖国参拝しているんですか」と、当然、尋ねてほしいところでした。
三浦: 「あなたは国民を安心して戦死させるために靖国神社にお参りしているわけですか」と確認すべきですよ。
小田: 確認すべきですよ。 そう言ったんですから。
三浦: でもそれは徴兵制復活というのと同じじゃないですか。
小田: まったく同じです。 でも、ぼくが徴兵制を復活させろなんて、いつ言いました?
三浦: いま言ったよー。(笑)
小田: 徴兵制を復活させればこの問題はヴァーチャルに解決すると言ったんです。
三浦: そうかそうか。 仮定ですね。 具体的に復活させろというわけじゃない。
小田: そんなことはできない。 だけど、曾野綾子さんが中教審で提案したことに、青少年に対するボランティアの義務づけというのがありますね。 そのくらいは許されると思います。
三浦: ボランティアの義務づけというのは字義矛盾ですよ(笑)。 自発的にやるからボランティアなのであって、義務的にやるのではボランティアにならない。



小田氏はこの対談で、「若者がヴァーチャルなものに行くのは良くない」という話をしていたのだが、みずからが「ヴァーチャルな解決」の夢想に取り憑かれている。





感想雑記

  • 小田晋氏は、自己愛的な若者が心底憎いのだと思う。 その憎悪を小田氏が持つのは仕方ない。 問題は、それが権力として機能してしまうこと。(多数だったり医師だったり)
  • 「病気として治療すべきである」という話と、「正常であるくせに病気のフリをするから許せない」という話とが、ものすごく恣意的に混同されている。
  • ひきこもっている人は、赤の他人との関係においては圧倒的な交渉弱者だが、結果的に衣食住を確保しているのだから、家族との関係においては、あるいは社会的事実としては、一定の権力を生き続けている。 ▼家族という場自体が社会的・歴史的に構成されているという事実は無視できない。 その親密圏に必要なのはどのような正義か。
  • 小田氏のような言い分は、さすがに破綻して見える。 それよりも、「リベラルな社会では、自己愛が強くて交渉能力が低いだけの人間は、無理やり社会参加もさせられないけど、逆に言えば単に放置されるよ」というほうが現実的で冷酷。
  • 生き延びるためには、周囲や社会との交渉関係が継続される必要があるが、自己愛的な人間は見放されてゆく。 周囲にも「見放す権利」がある。 「○○するべきだから」という規範ではなく、お互いを受け入れたり見放したりする「ケア」*1と「交渉関係」の枠組みで、社会参加の問題を再検討できないだろうか。




*1:参照: 樋口明彦正義論にケアの視点を導入する」 【※『「準」ひきこ森』の樋口彦氏とはまったくの別人なので注意】