スピノザのいう「神」って、現実のことか

上野修氏 《「現実」を作ってみる》 より(講談社の小冊子『本』2011年2月号掲載、強調は引用者):

 現実とは何か。そう言われても困るが、ほら、いまこうしてこんなふうに目の前に部屋があり窓があり、その外にずっと世界が広がっていて、というふうなこれ、これが現実というものだ。われわれはこの現実がただ一つしかないことをどういうわけか知っている。それが何なのか知らなくても、知っているのである。現実の外には出られないことも知っている。どこまで行ってもそこは現実で、はじまりも終わりもなく、果てというものがない。現実はすべてがそこにある外部なき内である。
 こんなふうに、唯一で、限界がなく、すべてを含むもの、それが現実というものだ。われわれは間違いなくその中にいる。

  • 「神のほかにはいかなる実体も存在しえずまた考えられえない」(『エチカ』第一部・定理14)
  • 「すべてあるものは神のうちにある、そして神なしには何ものもありえずまた考えられえない」(同第一部・定理15)

 これって、さっきの「現実」のことではないか。ためしに言い換えてみる。 「現実のほかにはいかなる現実も存在しえずまた考えられない」。 「すべてあるものは現実のうちにある、そして現実なしには何ものもありえずまた考えられえない」。 ほら。
 スピノザは、「ほかに何もありえないもの」のモデルを作った。現実がこれしかないのは、それが「神」だから、なのである。われわれはみな神の中にいる。われわれも石ころも銀河も、すべて事物は、この実体の無限な内部状態の一部、無限様態の一部だということになる。


    • 人間の工夫は、手遅れになったあとの小手先の処置にすぎない。
    • 生きることは意味のない拷問であり、
    • 物理法則のありかたを変えられないなら、「失敗作の尻拭い」。
    • そういう屈辱に苦しむとますます状態を悪くするという罠。