学問的業績と、コミュニティの内部告発

読み始めたら止まらなくなった。

 数ある男性集団の中でもこれほど impotent な集団に、自分以外の利益集団に対して、提供・共有できる資産とその精神的余裕があるという認識をそろそろ転換されたい。

 去勢された男にできるたいがいのことは、そこらの女にあってもできるに決まっている。

 日本版 家父長制的 家族団体にあって一番心地よいのは、foetal position (胎児的ポジション)なのに違いない。



「社会順応している男性は、子宮から出たのではなくて、別の子宮を見つけたにすぎない」――そういう疑念がずっとある*2


既存の社会参加じたいが子宮回帰的なら、
ひきこもりを通じて子宮回帰そのものまで考察すると、人と関わることができなくなってしまう。
《自立》とは、用意された子宮に入ることだった。 いっぽう 《ケア関係》*3 では、子宮回帰とは別の作法が求められる。

 政治的服従には、ひょっとすると、なにかの理由、最低、こじつけが必要なのではないかという合理的懐疑・・・・近代的な社会契約説と家父長制的政治理論との相克

家族が、ほんとうに《自由な主体どうしの契約関係》なら、なぜ家父長制を正当化できるのか。
近代思想の矛盾が、親密圏の意思決定に集約される。

 初期のコンメンタールにおいて、新憲法24条の解説を、民法学者が担当せざるを得なかったという事実は、日本の憲法思想の近代化プロセス(の欠如)を示す正確なバロメータであったといっていいだろう。 穂積八束は、家族論が憲法論そのものであるという自覚を持っていた。


 西欧近代への憧憬が、たとえば、『個人主義的な近代西欧家族関係』(川島武宜)といった形で、表現されてきたことは、広く見直されるにいたっているようにも見えるが、しかし、“市民革命の痛みを経験しなかった日本” というテーゼには、実際のところ、どれほどに、自らの生い立ち、自己批判というモーメントが込められているものなのだろうか?

 憲法学史の重要性(長谷川正安)という大上段の建前には、誰も反論ができない反面、それが、どうやら、18世紀ドイツ憲法学説史の文献購読などとは異なり、明らかに、あまりにも苦痛を伴う心理的プロセスを伴うものであるらしいことが、かつて、正直に、認められてきたといえるのだろうか。

 (略) 『政治の領域』では、あるいは、日本的家制度は否定されたかもしれない。しかし、温情的な拡大家族主義諸原理とその弊害を、社会の随所に見出すことは、現代においても、さほど困難ではないと思っているのは、私だけか。



集団主義的な人権蹂躙を批判するはずの憲法の研究者たち自身が、自分たちの集団主義を対象化できないという笑えない戯画――《当事者発言》は、ここでこそやらねばならないし、それは「自分だけは間違ってない」と言い張るのとは真逆の努力。 この自己検証は、正義や権利の主張よりも、おのれの関係性に対する《ケア》の文脈にある。



amazon の「著者からのコメント」より:

 「近代立憲主義の根本思想とされる近代個人主義は、封建思想に対立してはいるが、(略) 権威主義的な団体主義を100%否定するものではない。

 そのことを理解してこなかった日本の憲法学界は、まだ本当に近代個人主義思想をわがものにしたとは言えない。皮肉なことに、憲法学界には、実際には、前の世代に批判的な学説史が書ける人がおらず憲法学以外の discipline の研究成果には無関心なことから分かるように、自らの中では、権威主義的な団体主義を否定できておらず、しかも、そうした問題を克服できていないことは否定(denial)しようとする」といったような主張となりました。

 しかし、憲法学者としての最初の本ということで、学界内で認めてもらいたいという思いがあり、アカデミックで第三者的な冷静さを装おうとしたり、私自身こそが、批判しようとした人々に支持されたい、理解されたい、という甘えを当時持っていたために、自分の感情の中に自然に沸き起こるに至ったこの主張は、ちょっとした当てこすりというか、つけたし的な示唆に終わってしまい、それが本来の趣旨なんだと言い切ることには失敗していると思います。



執筆者の中山道子氏がアカデミック・サークルを去っておられることに気づき(参照*4、しばらく呆然とする。


【追記1】 コミュニティ参加者がコミュニティの実態に疑問を出した場合、

提起する側は無手勝流だが、提起された側も、抗弁がしにくい。
憲法学そのものではなく、《憲法学をする人たちのコミュニティのあり方》を検証し始めると、その議論は、印象論的な愚痴の言い合いみたいになってしまう。(しかし学問共同体のあり方は、業績のありかたに露骨に影響するだろう。コミュニティは業績の環境要因となるが、それは憲法ディシプリンそれ自体の中で論じることは難しく見える。)

法解釈の恣意性や相対性が問題になり得るとして*5、ここでの中山道子氏の問題意識は、そういうものとも違っている(法学が、自分のコミュニティ環境を問い直すことはできるのだろうか?)――これはただ、「人文的な叫び声」としてスルーされる以外ないのか。 問題意識それ自体としては必要なのに、法や政治が必要とするような正当な手続きが見いだせない。
――この難しさは、ひきこもりに取り組むことの難しさと直結している。 《身近な関係性》に、手続きが見いだせないのだ。

【追記2】 「配偶者等からの暴力に関する調査」(男女共同参画局)より:

 身体的暴行、心理的脅迫、性的強要のいずれかをこれまでに 1度でも受けたことのある人は、女性19.1%、男性9.3%

回答のあった範囲では、男性も「被害」に遭っている(女性の半数くらい)。






*1:書籍化されたもの:

近代個人主義と憲法学―公私二元論の限界

近代個人主義と憲法学―公私二元論の限界

*2:「俺は自立してる」と主張する年配男性たちが異様に幼児的に見えるのは、気のせいか?

*3:ミルトン・メイヤロフ『ケアの本質―生きることの意味』ほか。 ギリガンの『もうひとつの声―男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』は入手できない(参照)。

*4:「20代は大学で研究をやっていたが、実社会にまったく影響を及ぼすことができないことに失望し、方向転換。2001年、輸入婦人小物通販事業立ち上げに成功」

*5:cf. 大屋雄裕法解釈の言語哲学―クリプキから根元的規約主義へ