「時間的にも空間的にも社会全体が労働のもとにおかれている」

現代思想』2005年11月号、廣瀬純「現実主義的革命家とマルチチュード、そして闘争の最小回路」、p.134-5より引用(強調は引用者)。 少々長いが、「ポストフォーディズムマルチチュード」という話の要約として。

ネグリが「新たなプロレタリアート」と呼ぶもの、すなわち、ポストフォーディズムマルチチュードについて、簡潔におさらいしておこう。ポストフォーディズム、工場や事務所などで雇用されている賃労働者だけでなく、社会全体を剰余価値生産に総動員させる体制のことである。社会では、人々が、ネットワーク形成の様々な技術を集団的に創造し、そうした技術にしたがって様々なネットワークを実際に創造し、また、そうしたネットワークを通じて新たな知識や新たな情動を集団的に創造している。ポストフォーディズム体制において、資本は、これらすべてを剰余価値生産に総動員する、すなわち、これらすべてを労働のもとにおくのである。しかし、ここで重要なことは、ネットワーク形成技術の集団的創造、ネットワークそのもの、そして、ネットワークを通じて集団的に創造される知識や情動といったものは、その本性において政治的なもの、すなわち「生-政治的なもの」だということである。したがって、ポストフォーディズム体制下で資本がこれらすべてを労働に専念させるとき、資本はまた、それと同時に、これらすべてのものを脱政治化してもいるのである。要するに、社会全体は、資本によって労働のもとにおかれると同時に、政治から切り離されるということである。やや粗雑なイメージをここで喚起しておくならば、フォーディズム時代において資本によって労働のもとにおかれていたのは、午前九時から午後五時までのあいだ工場に閉じ込められている範囲での賃金労働者たちの生であり、また、そうした賃金労働者を資本のために再生産する役割を担わされていた人々(賃金労働者の家族など)の生であったが、例えば、こうしたフォーディズム体制下の賃金労働者たちは、午後五時になって工場の外に出ることをひとたび許されれば、翌日の労働力の再生産のための時間(労働のための休息や睡眠)を資本からかすめ取りつつ、政治的な様々な活動に残りの時間を使うことができた(「プロレタリアートの夜」)。すなわち、フォーディズム体制下では、少なくとも、午後時から翌日午前九時までの賃金労働者たちの生を、先に挙げたような社会的諸要素の政治家に当てることができたわけである。ところが、賃金労働が時間的フレキシビリティと空間的モビリティとによって規定されるポストフォーディズム体制下にあっては、かつての賃金労働者たちがもっていたこの僅かなチャンスも奪われることになる。社会全体が資本によって労働のもとにまるごとおかれ、それによって、社会全体が政治から切り離されるというのは、例えば、そういうようなことである。このことによって導かれる帰結はどのようなものか。それは、政治が一部のエリートのみによって独占されるということである。資本によって、社会全体において集団的に創造されるすべてのものが商品化され、また、社会全体がひとつの巨大な商品取引ネットワークに還元される一方で、一部の政治エリートが、こうして脱政治化させられた社会に代わって、政治をまるごと独占するのである。ネグリの言うような、資本主義者たちとテクノクラートたちとの「同盟」というものがあるとすれば、それはまさにこうして結ばれるのだ。すなわち、社会をまるごと労働に専念させる資本主義者たちと、これに応じて政治のすべてを独占するテクノクラートとのあいだの「同盟」である。

「社会のすべてが商品に還元される」、「エリートが政治を独占する」という事情については、単に批判的な姿勢を保てばいいとは思わないし*1、今は詳しく論じる力がない。僕としては「時間的にも空間的にも社会全体が労働のもとにおかれている」という事情を、「だから私は孤立しているようでも、生きているだけで社会に巻き込まれているのだ、すでにして他者との関係の中にあるのだ」と肯定的にも読み取りたい。あなたは生きているだけですでに巻き込まれている。――しかし、巻き込まれる回路が一つしかないからこそ、ひとたび排除されたら二度と復帰できないわけだが。

    • 「社会」という言い方と「資本」という言い方が限りなく近づいているわけか?


ネグリは、マルチチュードの革命的主観性を「現実主義的に」規定しようとするときに、必ずこれを「〈帝国〉に抗する」という《闘争の最大回路》のなかで把握しようとするために、マルチチュードを構成する私たちひとりひとりが労働に縛り付けられている自らの知力あるいは生をひとつひとつの具体的シチュエイションのなかで政治的に有効なものへと反転させようと欲望する際の《闘争の最小回路》を、とことんまで弛緩させてしまうのである。闘争というものは、その《最大回路》に基づいてグローバルに組織され得るようなものではなく、また同じことであるが、「グローカルに」組織される(「グローバルに思考してローカルに行動する」)ものでももちろんなく、むしろ、つねにその《最小回路》に基づいてシチュエイショナルに組織されるものなのだ。*2

ネグリの《最大回路》がロマンティシズムに見えるのはいいとして、しかし《最小回路》と言ってみても、よくわからない(それは各人が自分の現場で自分で探せ、ということか)。
「われわれは、プライベートな時間まで含めて資本にすっかり包摂されていて、メタな批判的視点を許されず、ただベタに隷属するしかない、そのことにすら気付けないまま」という批判的視点はたしかに重要だとして、しかしその視点自身は「どうすればいいか」という指針を与えてくれるものではない。そもそも、僕らは資本に巻き込まれ、その中でうまく立ち回ることなしには、生きていることすらできない。
ひとまず、一個一個の「トラブル」を《最小回路》と見なすしかないのではないか。 トラブルが遡及的に教えてくれる諸々の事情がある。



*1:それだけじゃ単に左翼的に「自分の正しさのアリバイ作り」をしているだけで退屈だ

*2:同、廣瀬純、p.138