フロイト「文化への不満」(1930)

フロイト著作集 3 文化・芸術論』 p.482-3

 そしてこの段階になってようやく、まったく精神分析的で、われわれの通常の思考にとっては思いもよらないような考え方が登場する。 この考え方に立ってはじめてわれわれは、われわれがいま論じている問題がなぜこんなに混乱した正体不明のものとしか思えなかったのかの理由を理解する。 すなわちこの考え方によれば、なるほど最初は良心(もっと正確にいえば、あとで良心になった不安)が欲動断念の原因であったが、のちにはこの関係が逆になったのである。 そして、欲動断念が行なわれるたびに、それは良心の尽きぬ源泉となり、新たな断念があるたびに、良心の峻厳さと不寛容とはますます増大する。 そして、われわれがすでに知っている良心の発生史と矛盾さえしなければ、われわれは、「良心は欲動断念の所産である」とか「(われわれに外部から強制された)欲動断念は良心を生み、今度はこの良心がいっそうの欲動断念を要求するのだ」といったパラドクシカルな主張をしたいという気持ちに駆られるほどである。
 本当をいうと、この主張とこれまでに述べてきた良心の発生史のあいだの矛盾はそれほど大きなものではなく、また、この矛盾をさらに小さくする方法もないわけではない。 叙述を簡単にするため、例を攻撃欲動だけに限り、いまの場合、攻撃欲動の断念だけが問題になっているものと仮定しよう。 もちろんこれは、当座の仮定にすぎないものとする。 すると、欲動断念の良心への影響は次のようにして行なわれる。 満足させられなかった攻撃欲動が持っている心理エネルギーはすべて超自我に引きつがれ、超自我の(自我にたいする)攻撃欲動を強める。

ひきこもる本人が、自分で自分を許せない理由。
また、世間がひきこもりに殺意を持つ理由。