積極的離脱とひきこもり

ネットには少し前に復帰していたのですが、ブログからもメールからも開放された状態があまりに快適で、しばらく意図的に離脱していました。(何年ぶりだろう)
ひきこもるしかなかった時期には、自分を社会から切断するしかできない状態がひたすら苦しかったのですが、今回は、義務からの一時的解放に安堵がありました。そこでしかできない充電もあると感じる*1
今の私には、復帰しようと思えば復帰できる取り組みの文脈がある。離脱したことだけを外側から見ていると同じでも、心の内側に起こっている事情がずいぶん違う。(そもそも人間関係のすべてを切断したわけではないし、ネットから離れている間にもオフラインの接触やわずかな仕事はしていました。)


「二度と復帰したくない」という感覚は、たぶんいろんな意味での自殺願望にあたる。それはあながちナルシシズムばかりではないと思うのですが・・・。▼むしろそこには、自分が誰でもなくなるような、完全に匿名性の中でありきたりに生きることへの願望とか、淡々と生きることへのあこがれとかがある。それは精神分析にいう「去勢」と地続きと感じる。▼社会への参加ばかりでなく、「この世界」への参加をも耐え難いと思えば、やはり生命体として辞去するしかなくなる。


人間関係や仕事からの離脱はこれからも繰り返し必要であると感じるけれど、あのひきこもっていた当時のような意識状態は、二度と体験したくない。そうならずに済むコツを必死に探しているし、今でも課題は、あの精神状態からいかに抜け出すか、です。▼ひきこもることが肯定されても、あの当時の意識状態だけはとにかく耐えられない。――だから、客観的状態として単に「働かない」人がいても、あの意識状態と無縁ならば、それは「ひきこもり」と同じであると見なすわけにはいかない。


「義務や人間関係からの意識的離脱」と、「ひきこもり」という不可抗力の窒息とは、無関係ではなくとも、分けて考える必要がある。(いつでも復帰できる状態で社会から離脱したい個人がたくさんいるという状況と、まったく復帰できない不可抗力のひきこもりが数十万人規模で存在する状況とは、同じに扱うわけに行かない。) ▼離脱があっても内面が自由なら、それは(このブログが問題にしているような)「ひきこもり」ではない。 【斎藤環が何度も示唆しているように、社会的隠遁が自由に許されるようになれば、現在のような「不可抗力のひきこもり」は、むしろ減ると予想される。規範的に許されないという状況は、復帰しようとする試みすら挫折させ、二重三重に人を監禁する。】







*1:文章への動機づけのスタイルも変わってきたと感じています。