本当にまずかったのは、内的および外的な、「復帰できる文脈」を失うことだったかもしれない。
復帰できるためには、
(1) 具体的な課題の設定と、内発的な関与
(2) その課題を承認する社会的文脈
(3) 関係への欲望をお互いに承認できる、具体的な個人
などの絡み合いが必要だと思う。
この3つのいずれも、ひきこもっている人には無理。
ひきこもっている人が自分の社会的承認を夢想するときには、たいてい既存の評価文脈を踏襲している*1。 「評価されること」について、非常に凡庸なイメージしか持っておらず、みずからの内的な生産プロジェクトがあるわけではない。そうでなければ、あまりに超絶的で現実にはあり得ないような現実変革の夢*2。 具体的に何かに着手する能力を持っていない(強迫観念に支配されてできなくなっているとも言える)。 着手の優先順位が見えなくなっている。 それがつまり去勢否認なのだが(優先順位を決定する能力の問題としての去勢)、それを直接指摘してもはじまらない*3。 優先順位は、対話的に交渉して決めるしかない。
復帰できる文脈の整備としては、労働環境の改善などは必須として、それはしかしひきこもっている個人としては「交渉能力を高める」という個人的な努力以外にどうしようもないし、そもそも「あり得ないほどの交渉弱者」であるからこそ、ひきこもりの問題は単に労働問題に還元することもできない。
文脈復帰に必要なのは、
(1) 各個人の政治化
(2) 去勢否認の緩和
という、いっけん相反すると見えながら、実は同じ課題の両面。
人間同士の「つながり」は、必然的と思える去勢スタイルの共有にある。 社会的な文脈は、承認されるべき去勢スタイルを決めている。 その「承認されるべき去勢スタイル」を文脈として形成する力が政治力。 文脈の形成力としての政治力は、内面の力ばかりでなく、社会的な文脈にも依存する。