和樹と環のひきこもり社会論(43)

(43)【操作ではなく、制作従事】 上山和樹

 「当事者」という役割設定は、ひきこもりにふさわしい議論と対応が成熟するためにはどうしても必要です。しかし、役割を固定する考え方は、逆にひきこもりを悪化させる元凶の一つではないでしょうか。
 斎藤さんは、ひきこもりの「苦痛」があるために、当事者とそうでない人を対等と考えることはできない、とおっしゃいます。これは、見下されがちな引きこもりをていねいに考えるのに、どうしても必要な態度だというのは分かります。――しかしそこで大事なのは、誰かを支援対象として差別化することではなく、自分たち自身のあり方を柔軟に検討する、その意味での「当事者主義」だと思うのです。
 斎藤さんは、「苦痛が起こる構造の分析や対処は、非当事者にも可能かもしれない」とおっしゃるのですが、「可能かもしれない」どころではない。そのような分析や対処が共有できない、流されたまま順応するしかない「空気」こそが、最悪なのです。
 家庭や職場で、支援現場や人間関係で、お互いの機能を検証し、決まりきった専門性やマニュアル意識に逃げないこと。そうやって自分たちの事情をそのつど工夫=交渉し続けるところにしか、生き延びるチャンスはないと感じます。
 私が「コツや手続き」と言うときには、お互いの関係そのものに対する制作過程が問題になっているのですが、斎藤さんが「関係」というときには、なにか不可抗力の、「そういう風になるとしか説明しようのないもの」とされていませんか。あるいは、単に観客席からメタに説明されている。その斎藤さんの視線は、操作を志すより前から、操作主義の形をしているのではないでしょうか。
 (※「意識すればするほどできなくなる」という、再帰性と呼ばれる事情については、自転車の比喩がわかりやすいと思います。自転車に乗るというのは、よく考えるとものすごく高度なことをしているのですが、それは「意識しないから」できている。できない人は、操作方法をいちいち意識してしまうので、逆に乗れなくなってしまう。同じ事情が、社会生活にも言えるわけです。)