「ひきこもり」=「価値の増殖」?

 引きこもりという行動は、吉本隆明(『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)』)の言葉にしたがうなら、人生の価値を増殖させる。 だから、期間の長短にかかわらず、引きこもりによって得られた価値だけを元手に、若者は自らの力で岐路を超えることになる。 生産モデルによる社会への参入が無効化し、消費モデルによる参入が受け入れられないなら、若者はいったん立ちどまり、自ら考え価値を増殖させるしかないということだ。 これを邪魔する権利は誰にもない。(p.147)

「現時点からはそのように考えてやってゆくよりほかない」という境地ならばわかるが、ひきこもりそのものが単に「価値の増殖」ならば、みんなそこにはまり込めばよいということになる。 冗談ではない。 ▼「ひきこもるしかない」という不可避の動きは、「自分でそれを選んだ」と言えるような悠長なものではない。 そもそも、ひきこもる方向の心の動きには、自分の言葉が蒸発してゆくような、体験を言葉で媒介する営みそのものがじりじりと後ろ向きに失われてゆくような、支え難い苦しみがある。


意図的な価値的選択によって「家に居ることにした」という状態を肯定するときに使う語彙やロジックと、不可避的に「そうするより他どうしようもない」という追い詰められた、意識的選択ともはや言えないような自己防衛の後ろ向きの選択とでは、起きている事態が違う。


三者的に見て、ひきこもりをどのように遇するべきなのか。――そのことを検討するときに、「家にいてもいいではないか」「社会参加から逸脱する期間があってもいいではないか」という枠で議論する必要があるのだと思う。
高岡氏の議論は、ひきこもりのディテールに関しては徹底して不誠実だが、社会全体で共有すべきであるような政治課題としてそれを論じるときには、有益な機能を持ち得るように思う。