「理論化」

 私たちは、長田・杉浦を引き出し姉妹と呼び、同列に扱ってきた。 しかし、当人同士は極めて仲が悪いらしい。
 その理由は、容易に推定できる。 姉は、あくまで「妹たちに姉らしく」振る舞い続けねばならなかった。 しかし、近くで姉の実際の姿を見てきた妹は、それが虚構であることに気づいていた。 にもかかわらず、それを理論化する能力は、妹にはなかった。 (p.123-4)

姉妹間の心の機微を、小説の作者のように主観目線で「想像」しているが、このような作業を高岡氏ご本人は、「精神分析」と呼んでいる(p.208)。 これが精神分析・・・?


また高岡氏は、「理論化」「理論化」と連呼するのだが、どうも「理論化」自体が、硬直したイデオロギーのキーワードに見えてくる。

 杉浦には、それがわからなかった。 ここでもまた、姉のイジメられに対する母親らの対処の不十分さが、妹の理論化をいっそう不可能なものにしてしまったのだ。(p.130)

 なぜ、かかる矛盾した主張が併存するのか。 杉浦は、一方では「姉らしく」振る舞い続けた長田の中に、嘘が隠されていることを嗅ぎとっていた。 それが、叱責や集団指導を否定する正論につながった。 しかし、他方では、杉浦の先天的な理論化能力の不足と、姉のイジメられに対する母親らの対処の不十分さが相俟って、「屈強な人の助けを借りて・・・・連れ出す」という、姉と同様の方法に帰着した。 そう考えるしかない。
 事実、杉浦の著書に見られる理論化の欠如は、目を覆いたくなるほどだ。 前掲書*1を例にするなら、「はじめに」と「むすびに」以外は、すべて「ケース」の記述ばかりで、考察がまったく含まれていない。 こういう造りの本には、用心したほうがいい。 (p.127-8)

高岡氏は、「ひきこもりの全面肯定」という絶対的なアリバイのもと、語っている自分自身を分析する労苦からは、免責されたことになっているのだろう。――そんな免責は、生身の人間にはあり得ないはず。 ▼私たちは、語っている自分自身をもお互いの権力関係に巻き込まれたものとして考えるべきであって、自分だけメタに居直れるというのでは、そこにも「分析=理論化」はない。