生きられている力関係の否認――「寸断されることへの恐怖」

 「追い出す」という行為については、「かわいそう」という感想は可能であっても、行為自体を倫理的に批判することはできません。 もし、ひきこもっている彼らを完全に健常者とみなすのであれば、彼らのしていることは、見方によっては、すでに保護義務者ではない同居家族の権利を侵害することにほかならないからです。 ほとんどの事例は家族に経済的に依存しており、食事の世話をはじめとする身辺雑事を家族に負担させ、半数以上の事例が暴力や暴言によって家族の自由を奪った経験を持ちます。 これらが許されているのは、家族なんだから、身内なんだからいいではないか、という、ある意味で「伝統的な価値判断」が存在するためでしょう*1。 この価値判断抜きに、成人のひきこもり事例が、その生活を家族によって支えてもらう行為は正当化できません。 (斎藤環ひきこもり文化論』 p.23 より、強調は引用者)



本人の側に、いくら「ひきうける主観」が成立していなくとも(参照)、あるいは親子という関係への参入は非対称であっても(参照)、扶養が継続されている以上は、ある力関係が生きられている。 生き延びるために家族およびその財産を服従させているという事実は厳然としてあり、明示的な交渉がなくとも、事実としての力関係は機能している。 それは、あまりの交渉弱者である本人の窮状から、なし崩しにそうなってしまった事情でもあり、家族にとっても、本人にとっても、不可抗力の膠着状態となっている。
家族の側は、たとえ法律に罰せられようとも、服従を拒否し、子が死ぬに任せる選択もあるだろうか。 【嫌がる本人を無理やり遺棄することは、現状の法で可能だろうか(扶養義務や暴行罪など)*2。 しかし既存の法律が、ひきこもりという事情を想定しているとは思えない。】


衣食住を満たされ生き延びているにもかかわらず、その状況を引き受けられず(というか引き受けられない結果そのような状態になっていて)、あろうことか「こんな生を押し付けられたのは迷惑だ」と考えていたりする。 ひきこもっている本人においては、「それ以外のあり方ができない」という意味において、意図的な欲望と引き受けの関係が破綻している(cf.「積極的離脱とひきこもり」)。 近代的な「責任」の概念をそこに持ち込もうとすることが、本人の主観側への訴えとしては、きわめて難しい。 扶養が継続されているのだから、権力関係が維持されているにもかかわらず、その権力の担い手である本人が、権力の事実を否認する。
一般の社会生活や雇用関係においては、そこは権力の上下関係で乗り切られるのだと思うし、だから多くの人は、ひきこもりを強圧的な命令行為で処理しようとする。 ひきこもりという状況だけが人間の力関係から逃れられるわけもなく、ひきこもり状況自体が、特異な力関係の構図にある。――問題は、ひきこもりという場に機能しているさまざまな力の構図を分析し、具体的な取り組みを蘇生させること。
力関係の否認が、そのまま状況の硬直を生んでいる。 否認が現状維持に加担している。


しかし、ではなぜそこまでして本人は、「現世的な責任」を引き受けることができないのか。――「寸断されることへの恐怖」が関係している。
無時間的で硬直的な*3「永遠の現在」に幽閉されていて*4、そこから一歩踏み出せば、たちまち自分が崩壊してしまう。 自分を維持するために幽閉を続ければ、それがそのまま「ひきこもるしかない」という不可抗力の居直りになってしまい、これがそのまま家族への威圧になる(寸断の恐怖に裏打ちされた威圧)。 積極的にその状態を選んだというよりは、それしかできなくなっている



*1:【上山・注】:「親密圏の正義」(野崎綾子

*2:専門家のご意見を伺わないと・・・。

*3:cf.斎藤環ひきこもり文化論』 p.90。 フッサール晩年の現象学に言う《生き生きした現在》が、パラノイアックな自己確認しか生きられなくなっている。

*4:「受け身/能動」のモーメントが微妙