和樹と環のひきこもり社会論(31)

(31)【関係の処理のしかたと、倫理】 上山和樹

 斎藤さんは「脳と倫理」を焦点にされていますが、私は最近、「力と倫理」あるいは「関係と倫理」を焦点に、ひきこもりを考えるようになっています。
 厚生労働省が2006年に行なった調査では、なんと「ニート」の23・2%に発達障害が疑われるとのこと。これが斎藤さんのおっしゃる過剰診断だとすれば、労働環境や価値観の葛藤、あるいは教育の問題が、「本人の脳の異常」にすりかえられたことになるのですが、このすり替えには、メリットもひそんでいます。
 脳に異常があるとすれば、第三者からは「他人事」と見られるかわりに、バッシングもされにくくなる(倫理的葛藤は、障害者差別の問題に切り替わります)。親御さんは「自分の育て方が悪かったのではないか」という罪悪感から開放されるし、本人自身も、「脳に異常があるなら、マトモに生きられなくて当然だ」と楽になれる。いろんな人に、アリバイが作れるわけです。社会保障の整備が進めば、むしろ「発達障害」という役割を引き受けたほうが、生きやすいかもしれません。
 ひきこもりの家族会の全国ネットワークであるKHJ親の会は、ひきこもりの典型的なあり方を「社会不安障害」(SAD)と位置づけましたが(2006年)、これも、支援インフラ整備を目指した政治的決断と思われます。
 ひきこもりの経験者には、自分が病気や障害と見られることに強い抵抗を持つ人が多いのですが、「病気でも障害でもない」とすれば、家族に扶養され続ける状態をどうやって正当化できるでしょう。また、もしそれが「自分で選んだ状態」でしかないのであれば、公的支援など受けられるわけがありません。
 私たちの往復書簡では、「社会的ひきこもりは、病気でも障害でもない」という前提を確認しています。だとすれば、本人の葛藤と、家族・社会との《関係》こそが、研究されるべきではないでしょうか。それは、単に本人の味方をすることでも、単に説教をすることでもないと思うのです。