和樹と環のひきこもり社会論(27)

(27)【「ひきうけ」の破綻としてのひきこもり】 上山和樹

 脳に関する本は、ほとんど興味がありません。「仕事や家事は脳がよくなる」というのですが、ひきこもりにおいて本当に問題になっているのは、脳の不活性というよりも、「引き受ける」という人文的なプロセスだからです。
 ひきこもっている人は、必死に「自分が生きている」という事実を「引き受けよう」としている、しかしそれがうまくいかない。ただひたすら思いつめ、精神的に息を詰める以外にできることがなくなっている。(斎藤さんはそれを以前、「実体化させられた主体」と的確に表現されていました。)
 脳が活性化して、それで良くなることがあるとしたら、ビジネス書にありがちな、「すでに引き受けているものをより潤滑にする爽快感」とか、そういう二次的な話であって、「そもそも引き受けられない」といういちばん根源的な部分は、見過ごされたままです。
 前便で斎藤さんは、ひきこもっている人はいちいち「何のために?」と立ち止まってしまうので交渉弱者になってしまう、と書かれていましたが、問題はもっと根本的なことで、そもそも自分がこの世にいること自体を受け止められない状態では、交渉なんて無理です。(以前に触れた小説『河童』の胎児は、自分が中絶されること以外は望みませんでした。)
 成人した子供を、親が扶養し続けている。斎藤さんはその一方的な関係について、なんと二〇〇一年の段階から、「家族内にも公正さが必要だ」という話をされています(ご著書『ひきこもり文化論』)。私がその議論を知りつつ、今に至るまでなかなか合流できなかった最大の理由は、このあたりのことです。つまり、自分が生きているという事実自体を受け止められていないのに、どうして「公正さ」などという、義務を含んだ関係を検討することができるのか。
 ひきこもりは、欲望を主張することによって社会の他者となったのではなく、そもそも「ひきうける」という営みが破綻したことによって他者となってしまった存在であり、その「引き受けられない」という事情については、本人自身にも理解できないままだと思うのです。