「ひきうけられない」――去勢否認と決済

4月13日、「神戸オレンジの会」のスタッフ・ミーティングに参加。 ひきこもりの心的リアリティにとって最も決定的である、「生きていることそのものが引き受けられない」というモチーフ(参照)について、あるひきこもり経験者と話題共有できた。 【「ひきうけられない」という苦しさを共有するもの同士として、その場で言説化を引き受けあい、共鳴しあったわけだ。これこそが、「メタ的に語りあう」ことの決定的な要因だと思う。そこにはまさに、「臨床的な効果」がある(cf.「体験共有のロジック」)。 孤立すればするほど、「ひきうける」は死滅する。】
「人生論」という形以外で、「ひきうける」というモチーフを扱える人がほとんどいない。 逆に言うと、たいていのひきこもり論は人生論に終始する。 語り手の考える「ひきうける」というモチーフについて、その前提や信念がいつの間にか吐露される。
すでに「ひきうけて」いる人は、自分のひきうけロジックを語ろうとせず(原抑圧にかかわる)、引き受けていない人は、端的に「引き受けていない」ため、それをメタ的に語ることもしない。 ▼引き受けることと引き受けないことの境目で、「ひきうける」という事象について、とりわけ「ひきこもり」に関連して何が起こっているのかについて、考える必要がある。 (それはつまり、ひきこもり特有の「去勢否認」について考えること。)


ひきこもっている人の社会順応は、「理不尽」「屈辱」という内的葛藤に、繰り返し阻害される。 順応的な社会復帰は、くり返し「寝返った」「裏切り者」と自他に責められる。 私は当事者たちに何度かそう非難されたし、自分でも繰り返し気になっている。 「俺はかつての自分を裏切っていないか?」――何をどう「裏切って」はいけないのだろう。 当時の一方的な思い込みについては、裏切るべきかもしれない*1。 世界はそもそも人間を「裏切って」いる・・・云々。 ▼つまりひきこもっている人は、本当に「ひきうけていない」のではなく、責任価値の理解体系が別枠になってしまっている。 「本来ならばこうであるべきなのに、そうなっていない」という強烈な理不尽感について、その不正を是正するための具体的な手続きを見出せていない。 言葉を換えれば、人間的な返済と請求の関係について、わけがわからなくなっている*2。 それゆえ必要な仕事は、その決済の「わけのわからなさ」を、少しでも「わけのわかる」ところにもたらす言葉の仕事ということになる。 (ひきこもりについてのさまざまな比喩や概念化は、その決済関係の「わけのわからなさ」を整理する試みに当たる。)  理解できなくても、とにかくそのような経済が動いてしまっている。 (やや不穏な比喩になるが、)いわば表の世界で正当でも、裏の世界でそうではないように。







*1:何が「思い込み」で、何が裏切るべきではない「倫理」なのか。

*2:cf.『ひきこもり文化論』 p.174-5