「優秀な人材に変身するキッカケに出会うか、未熟なまま老いていくか」(『分裂勘違い君劇場』)

 なぜ、坂本君は、wiseになれないのかというと、
 第一に、誰でも正しいことをするべきだ、ということを主張するだけで、物事を動かせると思っている。
 第二に、上司や会社に甘えている。
 とくに、この一点めが、intelligentな人たちの、根深い病なのだ。
 「誰でも正しいことをすべきだ」ということと、「それを実際にどう実現していくか」ということは、全く別のことなのだ。
 世の中で正しいことを実現していくには、世の中が正しいことを前提として行動してはいけないのである

ひきこもっている本人に要求されるべき「公正さ」は、世の中全体に対して要求されるべきといえる。 ところが実際には、そうは見えない。 「力の強い者はメチャクチャやれる。罪も追求されない」。
ひきこもりを通して見えてくる「公正さ」のモチーフは、どういう射程を持つか。

【追記】:

「ひきこもっている本人に要求されるべき公正さ」とはどのようなものなのか、というご質問をいただきました。
「ひきこもり」について問題になる《不公正》(とされるもの)は、次の2点です。

    1. 公共圏において、「フリーライダー」と見做されてしまうこと(税金を払っていない)
    2. 家族内において、経済的負担を負っていない(成人したのに扶養されている)

「病人でもないのに、全面的に養われる立場を維持している」という事情は、パーソンズの「病人役割」をすら参照できないとしたら、いったいどのように正当化できるのか。 【参照:「新しい役割理論的な位置づけ」(斎藤環)】
このエントリーでは、「ひきこもっている側」に《公正さ》が求められるとして、しかし「社会参加している側」は、果たしてどこまで《公正さ》に従っているのだろうか、という疑義を記してみたのでした。 ▼逆に言えば、「ひきこもり」というよく分からない事情を通じて、《公正さ》に新しい光が当てられるのではないか、と。