制度と個人――多様性

実際の支援論としては空理空論に聞こえるかもしれないが、
次のようなテーゼを検討すべきだと思う。

  • 「被支援者は、違法でない限りどのような思想を選ぶことも許されるが、支援サイドは、多様な思想を許容する思想的前提に基づいた制度を選択しなければならない。」

たとえば、被支援者本人がファシズムを選択して元気になってしまったら、どうするか。


これは、抽象的なお題目ではない。 ひきこもり支援の実情を見ていると、「被支援者が、支援者の思想をコピーしてしまう」という実態に何度も出会う*1。 端的には、そこで偶然的に出会った人間関係(中間集団)を居場所として、それ以後の人生を生きてゆくことになる。 共同体には、そこで生きている人たちに気づかれていない独特の思想傾向がある。 その傾向に馴染むことは、暗黙の前提になる*2
それ自体は間違ってはいない。 しかし、「この支援者にお世話になったら、思想まで染められてしまうのではないか(さもないと許されないのではないか)」「この団体に取り込まれてしまうのではないか」というのは、社会復帰のための支援サービスを受けようと思う当事者やご家族にとっては、リアルな心配事であり、実際にハードルになっている*3。 ▼「実現はできないが、でも理想としては掲げるべき」理念(統整的理念)として、「支援者の思想に染まる必要はない」というルールは、維持されるべきだと思う。
こうした事情は、リベラル的な制度設計の議論、すなわち「社会制度としてはなるだけ多様な価値観を認め、各人としては対等に論争を続ける」、あるいは「制度設計と実存とを分けて論じるべきだ」という議論に、合致するように思われる。



*1:影響が強い場合には、「冗談のセンス」までそっくりになる。 ▼もちろん、本人が納得しているならば、問題ないはず。

*2:もちろん、それに成功すれば、再帰性の地獄から抜け出せる。

*3:サービス消費者としての「選択行為の根拠づけ」が、再帰的にループ化する。 「この支援者でいいのだろうか」