和樹と環のひきこもり社会論(25)

(25) 【度外れた極端な弱さ】 上山和樹

 「生きることに意味がないと感じるのは、そもそも意味なんかないからだ。行動する身体になりきることで、こだわりを捨てなさい」――これはたしかに魅力的です。「農業を体験してみよう」など、行動療法的な「支援」事業は、たいていこういう発想ではないでしょうか。体を先に動かすことで何かに巻き込まれ、行動の連鎖に流されてゆく。本人の選択としてこれはアリだと思いますし、実際に社会生活が始まった後にも、「ここは乗り切るのが最優先だから、何も考えずにロボットになろう」というのは、必要な発想だと思います。
 しかし、すぐに疑問が沸き起こります。これって、「されるがまま」じゃないんですか? 社会は殺伐とした交渉関係に満ちていて、駆け引きやトラブルは避けられません。単に「身体になりきる」だけでは、とても生きていけない。
 斎藤さんは、二〇〇三年末に出された『ひきこもり文化論 (ちくま学芸文庫)』というご著書の中で、ひきこもりという一方的な扶養関係があいまいに続いてしまう理不尽さに触れ、「親子に一種の契約関係を導入する」ことを提案されています。これは、家族そのものを契約関係として捉える可能性として、今後ぜひ検討したいのですが(「家族への契約アプローチ」として、すでに学説もあるようです)、しかしそもそもひきこもりとは、本人の側のあまりに極端な「交渉弱者」ぶりに、対等な関係努力自体が破綻してしまった状態ではないのでしょうか。――ひきこもりを考える上での最悪の要因であるこの《弱さ》を問題にせずに、「身体になりきる」「契約の導入を」といっても、「それを本人がどう支えるのか」という根本問題が等閑視されているように思います。
 その弱さがあるから、ひきこもりは単に労働問題に解消することもできない。斎藤さんは以前、「ひきこもりは、病気でも障害でもないのだが、では社会的にはどう位置づければよいのか」とおっしゃっていましたが、まさに事実としては、ひきこもりは「度外れた弱さ」ではないのでしょうか。