欲望と義務の優先順位

ひきこもっている人が、生まれてきたことを「被害」とのみ感じていることは、あり得るだろうか。 本当に被害と感じていたら、すでに死んでいるだろうか? あるいは、生まれてしまった以上、なにがしかの欲望を持ってしまっているか*1。 判断されるべきは、義務と力関係の優先順位。 三者は、生きたがらない人間を単に見捨てる
どこかで生き延びたがっているのであれば(死ぬ選択をしていないのだから、なし崩しに生きる選択をし、それに家族を従わせてしまっている)、死にたいと語る本人は、生き延びたい欲望を否認しているか、死にたいと語ることで、かろうじて自分を支えている。 ▼ひきこもっている人がそうやって「考えている」間も、家族は扶養を続けている。 死にたいと語り続ける営みを、家族に支えさせている。――必要なのは、そうでしかあり得ない現実について、交渉関係を開始すること。 「生きてさえいればいい」というのも、親の判断の選択肢であり得る*2







*1:中絶されることを望む河童の胎児について、斎藤環は「すでに象徴界に参加している(言葉を生きている)のだから、欲望はあるはず」という立場を語られていた(大意)。 しかし、「中絶されたい」も欲望なのでは?(いや、どうだろう)

*2:「もしかりにひきこもり事例の親が、「たとえ一生ひきこもったままでいたとしても、この子が生きていてくれればそれでいい」と考えている場合、そうした判断を批判する権利は誰にもありません」(斎藤環ひきこもり文化論』 p.23)。 ▼この見解に、反論できる規範上の立場はあるのだろうか。 「生きているだけで公共圏のフリーライダーだ」等?