「「無常観」と「死の欲動」」(新宮一成)

 「無常観」、それをどんな風に説明すればいいだろう。 国文学者の川端善明氏は、ある訳書の中で「在るものすべてへの絶望的なうとましさ」という表現を用いられた。


 精神分析学は、フロイトが一九二十年代に確立した「死の欲動」論という火種を抱えていた。 「無常観」と関係するのはここであり、また精神分析の退潮は精神分析のこの核心部分の沈黙と関係している。


 この概念は精神分析という思想系の全体を組み替える可能性を開いたと同時に、精神分析を時代の認知から遠ざけかねない危険も孕んでいた。 そしてそれは現在の退潮として現実のものとなったのである。 しかしフロイトは、その考えから逃れようとしても逃れられなかった


 「欲動の全生活は死を招き寄せることに奉仕しているという前提・・・・結局のところ、有機体はただ自分のやり方でのみ死のうとするのである」(『快原理の彼岸』*1)。


 メラニー・クラインは、「死の欲動」から発生した「羨望」と名付けられる破壊的な心のあり方を、人間がいかに克服できるかという課題に取り組むことになる。 「羨望」は、「在るもの」をすべて無に帰せしめようとする、自己の存立そのものをさえも。 そうして、その末に人の至り着いた「無」だけが、創造という行為を保証する。 無から生じるのは必ずしも創造だけではないとしても、「無」からしか本来の創造はない。






*1:自我論集 (ちくま学芸文庫)』所収、「快感原則の彼岸」