「宮台真司ロングインタビュー vol.6」

宮台: でも本当に危機一髪だった。 あそこで前妻に出会っていなければどうなっていたか(笑)。

宮台氏はここで、速水由紀子氏と出会っていなければ「どうなっていたか」と笑う。
別の女性についても、以前に語っている

 もしその女の子と出会っていなければ、どうなっていたのだろうかと考えると、相当恐い思いがします。

運命的な出会いによる救済は、「ナンパの成功」とは別の体験として描かれている。
「偶然に出会った相手と愛情生活に入らなければ無理だった」というのでは、そういう相手に出会えずに苦しんでいる読み手の側は、努力のしようがない。


宮台真司氏のメッセージはつねに《自意識》をターゲットにしているが、「うまくいくコツ」は神秘的なままに留められ、「運命の出会いで救われる」というロマン的ナルシシズムが反復される。 ▼神秘的偶然に恵まれない者は、「カッコよさの唱道者・宮台真司」の指導で自意識の修行に励み、匿名的なモテ頻度を高めるか*1、それができない者は「自分はゴミなんだ」という自意識を強めるしかない。


宮台氏にとっては、運命の出会いに恵まれず、自分の提唱するモテ修行にも邁進できない非モテ男は、「物」なのではないか。

 結局のところ、実践する者しか――正確には実践する者が救おうと思う連中しか――「人」として扱われず、残りは「もの」として切断されることになる。 (中略) だから、東さんのような高い教養をもつ人間に対してだけの非公式見解として述べますが、“脱社会的存在”が遺棄されるのは、結局はしかたない。*2

そこでは、小学生を殺害して首を切り落とした酒鬼薔薇聖斗と、コミュニケーションを取ろうとして相手に嫌悪感を与えてしまい、それ以上の努力に漕ぎ出せない非モテ男とが、ともに「脱社会的存在」として括られている危惧すらある*3


宮台氏の語る「実践」は、どうして自意識的な正当性ばかりを追究するんだろう。 しかも救済は、「偶然的で運命の出会い」によってもたらされる。 そこでは「内発性」も、「決定的な女の子に出会う」と同じく運命的なものであり、事後的なナルシシズムの確認儀式の口実になっている。





【追記】

いくらナンパを積んでも、運命の女性に出会えなかった宮台真司氏を考える必要がある。 その偶然がなかった場合、あるいは「振られた」場合、宮台氏はどうすべきだったろうか。
ご本人は、そこを考えることを拒否しているように見える。
「最愛の人による受容」がなければ、宮台氏も脱社会的存在にならざるを得なかったのではないか。 モテ修行の空虚さに耐えられず。
社会参加の努力には、モテ修行と同程度の実りしかない。 それでも続けるコツは何か。 私は、残りの時間で何を実現しようとしているのか。


「残りの時間で何を実現しようとしているのか」という問いに含まれている答えが問題(at stake)な気がする。 結局のところ、そこで生きられる《愛》のようなものにしか、残りの時間を支える理由はないのではないか。


OK?ひきこもりOK!』 p.133-4 斎藤環氏の発言:

 実際に性的なパートナーを見つけ、性体験を重ねることは、自己イメージが有限性を獲得していく過程でもあるわけです。 自分の有限性を受け入れることが去勢だとすれば、性体験も一つの去勢だし、去勢のたびに社会化は進みます。 自己イメージが、ずっと幻想の領域に隔離されたままというのは、何かしら圧力が高まっていく過程なのかなという感じがします。

どうしても性的パートナーが見つからなくても、死によって自分の有限性を受け入れるしかない。 残された時間で、できる仕事を考えること。 それでもやりたいと思える仕事は何か。 その「できる仕事」への愛の有限性において、自らの死を受け入れること。



*1:宮台氏と同じ「ナルシシズム」の共有を目指す

*2:波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由』 p.52、宮台真司氏の発言

*3:そこで宮台氏への質問としては、「ナンパ修行すら出来ない非モテ男は、脱社会的存在なのか」があり得る。