映画『ある朝スウプは』



【以下、ネタバレ注意】



元気な人にとっては、社会で暮らす一部の人が「宗教に走る」と見える。 しかしひきこもる側からすれば、この社会で働くこと自体がすでに「入信状態」だ。
今は信仰がないが、これから実社会という宗教に入らねばならない*1。――そう考えているかぎり、自分自身への操作主義=再帰性は解除できない*2。 素朴な順応主義は、強迫的な超自我になる(→パニック、自律神経失調、対人恐怖)。
ひきこもっている人は、実社会という宗教に入信できずにいるが、「信仰できない」という形式において信仰状態(アリバイ)を生きている。 真っ白な状態があって、それが「入信する」のではない。 すでに誤解と信仰を生きている*3


作品の最後、繰り返し見た。 「台風が近づいてるのに、北川君と熱海に行った」。 おかしいことが分かっているはずなのに、その行動をやめることができなかった。 「なんでキャンセルしなかったんだろう」。 どうして、北川君の信仰をやめさせられないのだろう。 なんでその彼と付き合い続けたんだろう。 なんでこういうのから、自由になれないのか。 思い込みを解除できない彼と、その彼とつながり続ける自分と。 泣き崩れて、「他人なんだね」と言った瞬間、風通しがよくなる。 うしろのふすまに当たる日光の質感まで、治癒的に機能した。 お互いの思い込みは絶対に重ならない。そのうえで関係をつなぎ、切り、工夫する。 自分と他人の思い込みに無力を装うのではなく、かといって意識的に支配できるとも思わず(それではまた操作主義だ)、ただ分析しながら改編を続けてゆくこと。
監督は「100%の純愛映画」と言っているが、それではまるで「愛」への嗜癖を語っただけに見える。 お互いの信仰と愛着は、嗜癖するしかないなら救いがない。おぼれてゆくしかない。 この映画は、愛の表象というより、分析の必要を痛みとともに教えてくれるものだ。





【参照】:「『ある朝スウプは』の高橋泉監督とのトークです」(宮台真司

 「やはり性愛よりも宗教が強いのか…」と終わる映画ではありません。 「性愛よりも宗教が強いかもしれないからこそ、むしろ性愛だ」と、全く逆の印象を与えるところが、この映画の「100%純愛映画」というキャッチコピーに相当する部分かな、と僕は思っています。

まったくおかしい。 性愛と宗教を分離するのではなく、「性愛まで含めて宗教」だ*4

 性愛も宗教も、そもそも不完全な存在であるしかない人間に、包括的全体的な承認を与える、数少ないコミュニケーションです。

宮台はここでも、話を「自意識への承認」問題に還元してしまっている。その自意識自体が宗教的に成り立っており、それをこそ解体的に分析しながら関係をつむいでゆくという制作的モチーフがない。 そこから出てくるのは、自意識の朋輩関係のみ*5
宮台は、世界に相対する自意識だけは信仰的ではないと思っている。それが意識的に「選択する」ものだけが宗教だと思い込んでいる。だから「あえて」の話になり、あえて選択する自分自身は分析されない。 「あえて」も何も、すでに信仰を生きているというのに。
宮台の努力は、自意識維持のためになされている。 自意識の、自意識による、自意識のための戦術論。 事後的には、「勝ったか負けたか」のみがある。 戦術は分析されても、自意識は分析されない。





【追記】:

  • 予算3万円の自主制作だというが(参照)、何億円もかけた映画より貴重な視聴体験だった。
  • 「志津」役の並木愛枝(なみき・あきえ)の演技が素晴らしかった。
  • 監督の高橋泉は、トークショーではあまり大したことはおっしゃらないのに、作品のほうがすごい。 「作品で思考する」人だと感じる。
  • 「自意識が丸ごと承認される」のではなく、「分析が承認される」必要がある。分析への承認だから、反論も受ける。しかし、順応競争としての知識比べや点数比べ(ナルシシズムの承認ごっこ)ではなく、凡庸な承認を「認めない」こと、その認めない理由を説明できることが必要。これはしかし、お互いに過酷な分析労働を強いることになる。単なる承認のし合いっこではなく(それでは鏡像=ナルシシズムを慰撫し合ってるだけ)、分析努力の方向を共有する必要がある。お互いは、単に素材を提供する。みずからも素材となる。 ▼自意識が孤立することよりも、分析が孤立することが深刻。政治的にも、臨床的にも。孤立した分析はテロリストみたいな扱いを受ける。




*1:ひとつひとつの会社・学校・思想・学問などは、宗教団体に見える。

*2:再帰性というのは、「意識すればするほど出来なくなる」という事情のことだ。 たとえば自転車に乗るときには、操作方法を意識してしまってはうまく運転できない。 自転車に乗るというのは、あれほど細い車輪でバランスを取り、よく考えるとものすごく高度なことをしているのだが、それは「意識しないから」できている。

*3:それをみずから制度と見なして、分析と改編に取り組んでみること。

*4:性愛経験がないという自意識に傷つくことに、私はやはり自分の“信仰”を感じる。 私は、「やらなきゃいけない」というファンタジーに取り憑かれている。――そのように気づくことは、すでに「霧が晴れる」体験になる。▼分析とは、幻想をなくすことではなくて(できるわけがない)、幻想であると知りながら、それを換骨奪胎しながら、それと付き合ってゆくことだ。 自分の意識自体が、制度的・幻想的に成り立っていると知ること。 「あえて」選び取る前に、信仰はすでに成り立っている。

*5:「俺たち、エリートだよな」