つながりと実存、社会化と承認をめぐるメモ

《社会参加臨床》を考えるなら、ここらへんの原理論をやらない人は、ご自分の思い込みや党派性に巻き込んでいるだけです。 うかつに臨床を語れば、ベタな医療目線に終わってしまう。

  • ある議論事業には、コミュニティ形成機能がある*1。 議論事業の措定が、実存を安定させ、コミュニティをつくる。 議論事業の枠内にいるかぎり、その前提部分は見えてきにくい。
  • 「感染」を説く宮台真司と、嗜癖的な没頭を推奨する斎藤環は、処方箋として同じ話をしている*2。 ご自分を「成功した側」に置き、「対象は何でもよいから、魅惑されなさい」。 ここでは、《入門》という苦痛に満ちた境界線がモチーフにならず、「成功した入門後」*3は分析されない。 コミュニティについても実存についても、反復される「内側からの制作過程」*4が主題にならない。 「結果的に成功した状態」が範例として示され、「あんなふうになればいい」とのみ推奨される。 これは結果的に、自意識と焦りをますます昂進させる。
  • 環境管理やソーシャル・デザイン(を語ること)で自らの実存を処理する人たちは、ご自分の営む中間集団を対象化できず、「すでに出来上がったつながりを内輪的に追認する」しかできない。ある議論を遂行するというメタ課題があり、その課題に実存のプロセスが支配されて、「つながりの作法」は暗黙に共有されたままになる。
  • 差別は、名詞化によって成立する。支援は、その「差別された人たち」を支援することにおいて、最初から差別の形をしている。そこに自覚的でない人たちは、プライベートな会話で差別発言を乱発している。朝日新聞社員による差別書き込みは、左翼コミュニティ全体の作法を体現している。そして弱者側は、この支援作法を黙認してきた。「名詞形での処理」に安住し、動詞形の支援論を検討せずにきた。端的にいえば、当事者論を間違えてきた
  • 弱者支援を標榜する活動家は、人をカテゴリーに分類したうえで、そのカテゴリーにおいてのみ「守る」。 関係ロジックがすべて「名づけ」に基づいている。 ご自分は「闘士」というナルシシズムにひたり、そして実は、自らのマイノリティ意識をベタに隠している(「実は○○だった」うんぬん*5)。 支援者側は、自分じしんについても誤った当事者論を温存している*6
  • 「○○を守る」というカテゴリー処理しかないから、擁護論のすべてがイデオロギーとして硬直する。 起きたトラブルについて、「何が為されたのか」という動詞形をめぐる検証・分節がなく、「○○を守る」という宗教的硬直がすべてを支配する。▼コミュニティは、実体として存在するのではなく、あくまで「プロセス」であり、再生産の「パターン」だ。左翼系のコミュニティは、差別発言「として」成り立つ。差別的発話「というかたちで」つながりが再生産される。




*1:物理学、社会学、哲学、精神分析、批評…

*2:宮台は「右翼になればいい」、斎藤は「オタクになればいい」という。 いずれも、分析や自意識以前のデモーニッシュな没頭が目指されている。

*3:「社会化」に成功した後。それは比ゆ的にも実践的にも、「売れた商品」を意味する。労働過程は、「売れた」ことから遡及的に「社会的なものだった」ことにされる。売れなかった商品の生産過程は、「意味のない自己満足だった」ことになる。 ▼全体主義的な「すべての人の肯定」は、「すべての労働過程を承認する」という欺瞞をおこなう。 《結果物/労働過程/ヒト》――この3つへの介入と承認をどう設計するか。

*4:三脇康生はこのことを、「精神医学/反精神医学」「芸術/反芸術」をめぐって論じている。単にどちらかにつくのではなく、私たちは繰り返し、正当性の方針を組み立てなおす現場に連れ戻される。大文字のイデオロギーに従えば正しくいられる、というものではない。

*5:「いじめられていた」「貧乏」「被差別部落」「親が自殺」など、それ自体としては深刻であり得る。問題は、その深刻さへの「取り組みかた=制作作法」だ。私はずっとその話をしている。

*6:J.T.リロイの件は、マイノリティ側の人たちは(性的マイノリティに限らず)当事者語りをめぐる決定的な素材として、検討しなければ。この書き手にナルシシズムを仮託していた読者たちは、何をしていたのか。