信仰

それぞれの “専門性” には仕事の仕方があって、その踏襲でプライドを守るから、「本当はどうであるか」を考える前に、プライド確保を先にやってしまう。 それが問題だと言っても、誰も聞いていない。 努力システムに問題があると認めてしまえば、承認機会を全面的に失って、深淵に放り出されてしまうから。

医師は医師の職分確保を最優先し、学者は学者の、ひきこもる人は自分の自意識を――誰も「本当のところ」を考えない。


信仰は、実定的な教義内容というより、考えるときのプロセスの形にある。 同じパターンにはまり込んで努力し、そのパターンが苦痛構造そのものだと指摘されても、変えることが(認めることが)できないとき、信仰がある*1

宗教批判はこのレベルでやらなければいけないのに*2、左翼は実定宗教への非難で満足し、その批判パターンそのものが宗教になっている。――ひきこもる人の意識も、このレベルでこそカルト教と比較しなければならない。 思考努力がくり返し同じパターンにはまり込んで抜けられなくなっていること。
実態を語ってしまうと、自他の信仰システムに抵触するのでトラブルばかりになる。 とはいえ黙ってしまうと、間違った思い込みで苦痛が再生産され続ける。



*1:だから科学は、結論部分ではなく、「努力のスタイル」として信仰の形をしている。(ホーキングの発言は、結論部分だけを主題化している。)

*2:思考のはまり込んだ努力のパターン。 いわゆるトンデモ科学は、特定命題がどうこう以前に、《そういう方針で考えてしまう》というプロセスの問題。 “ああいう方針” にはまり込んだ人は、ある命題を手放すことはあっても、発想スタイルはやめられないかもしれない。――このレベルでは、相対主義に屈するしかないか。 この問いは、カルト的に固着した引きこもる意識の問題と重なる。 Cf.『カルトとスピリチュアリティ―現代日本における「救い」と「癒し」のゆくえ (叢書・現代社会のフロンティア)