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- 同じ内容を、ブログ記事の体裁で:「戦争の体験談を語るわ」(bewaadさん)
メモ
- 民族カテゴリーは、手続き上の形式的フレームでしかない。 実体化したうえで多様性を肯定する人は、《別の民族を肯定している》という自意識でナルシシズムに浸る。 だから、ひどい差別主義で終わる。(日本の左翼コミュニティは、思想の根幹が差別主義になっている。)
- 「こういう場合はこうする」というルーチンのナルシシズムを壊すほど難しいことはない。
- 苦しさを比較級で反省する人は、どうせ何もしない。 やっぱりどうも、表舞台で出来ることはあんまりないのか。
6月15日 追記
紛争中、国連(United Nation)をもじり「United Nothing」という言葉が現地で言われた。
世界は自分達を見ていない。当事者にとって、些細なことであっても、「俺たちは君達を見ているぞ」という気持ちは、代えがたいものがある。
最後に、書き込みの何処が創作かを書く。
まず、話に登場したソニア(Sonja_Grebo)、サニャ(Sanja_Edu)、
メルヴィナ(Melvina_Prazina)、カミーユ(Camil_Trpkova)、
メフメット(Mehmet_Spaho)、カマル、ミルコ(Mirko)、
ドラガン(Dragan_Stanisic)
彼らは実在した。そして彼らがこのような体験をしたのは事実だ。
ミルコとその家族が殺害されたらしいというのも、伝聞ではあるが事実だ。
祐希という人間が日本国籍を持つ日本人というのは創作。
希望の祐(たすく)即ち希望の助けという意味を込めて仮名を使わせてもらった。
彼の名前は、希望という意味があったからね。
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- フィクションの価値は、「感情のフックに役立つか」「仕事のヒントをくれるか」。 消費の対象ではない。 〔実際には消費財にしかなっていない〕
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- ユーゴ紛争は本物なのに、関心が持続しない。 体験者はメディア機能をもつが、深刻な事実は無力感を増すだけ。
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- 言葉も体験も消費財でしかないなら、身近な関係は技法なく放置される。 「自分は消費されたくないが、自分は消費し続ける」は無理。