ワークシェアでは、《つながりかた》こそが問われている

数年前に某所で知り合った会社員がひどい過労状態らしく、「手伝いましょうか」と言ったら本当に作業ファイルを送ってきた。

やるべきことは時間がかかるだけで、熟練は要らない。 仕上げて送り返したらひどく感謝され、「こういうのがビジネスになればいいのに」という*1

熟練技術者が雑事で過労になり、あぶれた人は手伝うこともできない。 《仕事》が契約の内部にしかないので仕方ないが、やるべきことの社会的配分としては効率が悪すぎる。


今回はお金すら貰っていないので「利用されただけ」とも言えるが*2、私がその人の睡眠時間を労働で買ったと思えば納得できる――問題は、誰に対してでも納得できるわけではないこと。(社員側も、信頼関係なくワークシェアだけを要求されれば、「仕事を取られる」と不安になるだろう。)


歴史的にいえば、契約による《仕事》の囲い込みは、合理化によるコミュニティ崩壊のプロセスであり、だからこそ自由になれた面があると思う。 しかしこのままでは、仕事のある側もない側もつぶれてしまうのだから、別の形でつながらざるを得ない。
つながれないなら、契約の内部は過労で死に、外部は「金銭の再分配」を受けるしかない*3


19世紀以来の運動史が示すように、コミュニティの自覚的形成は、基本的にはうまくいかない*4。 そうは言っても、生活が破綻するほどみんながバラバラなのだから、「どういうスタイルでなら繋がれるか」が問われている。 これは、ひきこもりや無縁死の核心に位置する問いのはずだ。

    • なし崩しにできていく関係性か、「分かりやすいイデオロギー」に頼るしかないのか。 関係の無意識的作法が、技法のレベルで問われている。 ▼若者や文化の生態を分析する人は、ご自分が「分析を見せつける」という繋がりを生きているだけで、技法の提供にはなっていない。




*1:「作業ベースのアウトソーシングなら、派遣で人を雇うより効率的」とのこと。

*2:いつか食事をおごってもらえるらしい。 重要なのは、「この人なら、それでもいいか」と私が思えたこと。――とはいえ私は、こういう信頼を運動家や社会学者らに利用されてきた。 人を利用することしか考えない(そのくせ企業人を攻撃する)彼らのありようは、その所属集団に受け入れられている以上、彼らの固有名詞に還元してすむ問題ではない(逆にいうと、固有名詞との事故的出会いからしか詳細は明らかにならない)。 ある集団の《つながりかた》は、個人の言動に表現されている。

*3:左翼系の議論は、いちばん肝腎の《つながり》を理想論でごまかすため、全体主義的理念に労働を搾取されるようにしか見えない。 ▼まちがっても関わりたくないタイプが「労働の再分配」を要求していれば、関係を切るためにも反対したくなる。

*4:誰かが中間集団をつくろうとした瞬間にひどく失敗したいきさつを、単に他人事として語る人は、おのれのコミュニティ作法を考察できているだろうか。