論争の担い手として脆弱すぎる。

ひきこもりとは、解消不能の論点*1につけられた名前であるとして、
個人レベルでの事態の改善は、この論点からの離脱を意味するだろうか。 この論点を忘れることができるということは、本人がそこで問題になっていたことを忘れられたということだ。
忘れるべきなのか。 忘れた後にどんな生が待っているのか。
というか、繰り返しズタボロになる現実の生において、忘れることなどできるのか。
傷口そのもののようなこのリアリティを。

    • 症候的に体験される、傷口のようなリアリティ=論点。 ▼私は以前それを、「受動的実存」と呼んだことがある。 向こう側から押し付けられる耐え難いリアリティなのだが、実存的に至上の価値を持つ。 それを踏みにじられたり「治療」されたりすることには、自分の精神を抹殺されるような苦痛がある。*2
    • 問題は、そのリアリティが、論争主体としての能力を損ねるように機能するということ。 いや、能力が低いからそのようなリアリティにはまり込むというべきだろうか。 不明。 ▼論争として経験される社会生活の能力は、そのリアリティを抹消することで担保されるのか、それともそのリアリティを活かす道しかないのか。
    • 課題としては、「論争の質を変えてゆく」ということがあるかもしれない。 むき出しの内面を吐露したり、説教したりするのではなく、柔軟に自分のリアリティに取り組んでゆく道筋を探すこと。 ▼環境への絶望は、「論争の絶望」に見える。




*1:「同じ場所に帰ってくる」とか、「不可視で統計化不可能」などから、「トラウマ」や、ラカンの《現実的なもの》を思い出す。

*2:私の言説努力は、このリアリティに駆動され、ひたすらこのリアリティを問題にしてきた。