三脇康生氏と電話。 ここ最近考えていたことを一気に聞いていただく。
以下に記しておく。
- 当事者という概念は、弱者擁護や労働の基点であるとともに(左翼)、主意主義の基点であり(右翼)、愛の問題でもある(宗教・性)。 ▼責任問題、作品創造、ジャーナリズムなどのモチーフも含む。
- 社会システムと心的システムの「二重の再帰性」について語る宮台真司氏は、研究活動とその成果を反省しながら、《自らの動機づけ》について語っている。すなわち「当事者語り」をしている。 ▼研究のディシプリンを確保してしまい、対象をベタに語ればいいと思っている研究者は、宮台氏のそぶりを「研究を遂行する能力が低いから」と評すだろう。 自らだけは、当事者語りを回避できると思い込んでいることだろう。 しかし当然ながら、ディシプリン踏襲型の研究行為も欲望に基づいている。 「動機づけを持たない取り組みはない」という意味で、メタ語りはない。 ▼オブジェクトレベルの語りの果実が、メタレベルの方法論を掘り崩す。 研究自体が再帰的。
- 全体性を志向する「学問 Wissenschaft」と、部分的専門性を志向する「科学 science」【参照】。 私の固執する「当事者語り」は、全体性志向の態度でもない。 世界に固執する症候的焦点にひたすらこだわり抜いて言説化を試みるような態度。 つまりそこでそのような形で動機づけられている、そこに不気味なリアリティが宿っている。 ▼部分的専門性を志向する「科学」の語りを絶対視するなら、《当事者語り》には言説行為としての価値がないに決まっている*1。 逆に私は、言説行為が成り立つフィールドそのものを問題にしている。 それがフィールドとして一定の効果を持つことは否めないとして、そのフィールドの設定そのものに必然性はあるのか。 そのフィールドに致命的な取りこぼし――対象の取りこぼしではなく、フィールド設定そのものが運命的に持ってしまう取りこぼし――はないのか。
- 「当事者語り」が、特権的に差別化された弱者のナルシシズムとしか見られない。 その状況は問題。 必然性と政治性をもった容赦なき「作品労働=活動」と見られない。 作り手側にも鑑賞側にも問題がある*2。 ▼差別的擁護でしかないのであれば、作品も作者も手放しで褒めておけば観察者のナルシシズムも安泰であろう。 しかし作品活動であれば、観察者にも批評眼が問われる。 私はまずは差別的擁護のフレームで語りの機会をいただき、しかし実際に試みているのは分析労働である。
- 固執している問題について、徹底して執拗に誠実に語ろうとする必然性。 それは吐露であると同時に、必然性に導かれた作品活動でもある。 ▼単なる吐露は作品ではない。 また逆に、ディシプリンをなぞることでアリバイをもらえるような話ではない。 ▼「自分は本当に大事なことを考えているんだ」というアリバイで、純粋さのナルシシズムに淫することも許されない*3。
- 私が90年代前半に東浩紀を発見したときの驚きは、「こいつの思考は、ルーチンワークに陥っていない」だった。 イデオロギー的アリバイではなく、自らの必然性にのみ忠実に徹底的に精緻に展開する凄さ。 それは私が、彼の「当事者的語り」に打たれた経験だといえる。 ▼『存在論的、郵便的』単行本のあとがきでは、今後は「この私」と徹底して距離をとることが表明されているが、真意がよくわからない。 転移切断のことだろうか*4。 ▼読者から「何がやりたいんだ」とくり返し問われる東氏は、宮台氏のような再帰性より前に、欲望の必然性を生きられる人のように見える。 結果のオリジナリティは、欲望のオリジナリティに支えられる。 「意味から強度へ」というスローガンがあるとして(宮台氏)、欲望の強度は単に動物的なのではない。
- 「当事者語り」の方法論は、まずはフロイト的精神分析とその周辺の思考伝統にある。 それが社会的に生きられた範例のひとつがスラヴォイ・ジジェクであるとして、社会学の「二重の再帰性」は、当事者語りの別の原理的枠組みを示している。 ▼語りの果実が、語りの方法論を掘り崩すこと。 そこで動機づけが危機に晒されること。
- 当事者語りが、約束されたナルシシズムでしかないなら、そこに賭け――事後的にのみ成否が確認される命がけの飛躍――の要素はない。 だから労働とは言えない*5。 しかしリアリティを探求する「分析労働=当事者語り*6」は、自由連想的に試みられた後、事後的に成否と内実を検証されるしかない。(分析労働のプロセスとその果実自体が、新たな分析労働の素材になる。これが「プロセスそのもののナルシシズム化」との相違。) ▼当事者としての「公正さ」は、こうした当事者語り(当事者労働)との関係においても、つまり独特の労働行為への批評的判断*7を通じても、検証されるべき。 【cf.「人的資本」論、稲葉振一郎『「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)』】
- 《弱者=プロレタリア=当事者》に味方することで政治的アリバイを手にする「左翼」たち*8。 逆に強者的肩書き(医師など)は差別的に攻撃される。 ▼無条件に持ち上げるか無条件にけなすかのどちらか。 いずれにしても自他を差別的にカテゴリー化している。 そう語っている本人は、自分の当事者性を置き去りにすることにむしろプライドを感じていることが多く、政治的アリバイを主張することにおいて無条件に(メタに)正当化されると思い込んでいる*9。 ものすごい威圧的。 ▼差別的に特権化された弱者を擁護することで、擁護者自身が差別的に特権化されるという持ちつ持たれつの正当化構図。 左翼が理不尽な暴力に堕する原理。
- 個人的にも社会的にも、消えることのない症候的論点としての「ひきこもり」。 ▼まず設定された言説フィールドがあって、それが「対象」としてひきこもりを発見するのではなく、ひきこもりという苦しい問いがまずあって、それが言説フィールドを措定し、さまざまなジャンルの議論を参照する。 「傷のようなリアリティ=論点」としてのひきこもりが、さまざまなディシプリンに基づいて論じられる(社会学的、哲学的、経済学的、・・・等々)。 ▼これこそが、「論点ひきこもり」というライフワーク的なタイトルに込めた意味*10。 このタイトル自身が批評的な当事者語りを鼓舞するものであり、当事者語りの方法論において基礎付けられている。
- 《当事者》は、それ自体が症候的論点につけられた名前だといえる。
*1:観察対象であるのみ。
*3:三脇康生 「個別の批評は七十年代と九十年代を去勢する仕事を持つ」 雑誌『クアトロガトス』創刊第1号 p.121-9 を参照。 以下、その論考よりの引用。 ▼「もっとピュアになるためには、売り買いできないプロセスそのものに作品がなることが志されても不思議ではない。作品はリザルト(結果)ではない、永遠のプロセスであると。」 「作品のプロセス、この非資本主義性という麻薬にいかれた人間は、(略)いわゆる親密圏における暴力に関する感受性が鈍くなる」 「このような70年代性(内ゲバ性)を去勢するには、プロセスがいかにリザルトに着地するのか、この実況中継を批評として行わなければならない」(p.123-6)。
*4:それ以後は、一読者としての私もいつの間にか距離をとるようになった。
*5:いや、ナルシスティックな「当事者語り」には一定のマーケットがあるか。 だから労働といえる・・・。 ▼「何をすれば労働したことになるか」というのは、まさに批評的判断だといえる。
*6:労働なのだから、誤ることがあるに決まっているし、それは具体的な労働行為として突っ込まれるべき。 ツッコムことも労働。
*7:私にとって「公共性」の問題は、ここにある。
*8:表明された主張内容に重要さがないということではない。
*9:当然ながら、そのメタ語り自体が欲望に基礎付けられている。
*10:自著のタイトルにするつもりだったが、論点としての「ひきこもり」は公共的に共有されるべきであり、複数の方による「論集」のタイトルがふさわしいと思う。 今はサイトが「論集」のようになっている。