ひきこもりは、それ自体が不可避の論争として経験されている

ルーマン的、ギデンズ的の「二重の再帰性」が、めちゃくちゃクリティカルです。
以下、個人的なメモ。

    • 対人恐怖や社会恐怖も、「自他の関係性を考えつめすぎること」と捉えれば、再帰性の枠で考え得るのではないだろうか。 ▼醜形恐怖や赤面恐怖は「自分がどう見えているか」を強迫的に気にしているし、対人恐怖の多くは「迷惑をかけてしまうのではないか」という加害恐怖にあたる。 関係性を考えつめすぎる自意識は、関係をかえって破壊してしまう*1
    • 宮台氏は徹底して「自意識」をターゲットにメッセージを出しているが*2(「再帰性の徹底」の実演)、「ダメな自分」の自意識を反復するだけでは、事態改善よりはむしろ自滅を招く(「自分は遺棄されるだけ」)。 自意識や再帰性を徹底するのとは別の、固執の展開が要る。 ▼呼び出される「固執のリソース」は、意識的には理解しにくい。 「何に怒っているか」などで、事後的に理解される。
    • 「自分の人生の選択はこれでいいのだろうか」 「こんなものでしかあり得ないのか」という、宗教的・実存的な不安。 ▼耐え難い境遇への分析は、自分の資質や社会的制約(雇用環境など)への懐疑に向かう。 「運命」なのか、「変えられる何か」なのか。 家族との関係も、交渉関係で考えるしかない。
    • 労働市場や性愛に対する、冷静な分析。 「自分が社会に出ても、ズタボロになるだけ」 「残された人生の時間には、もう苦痛しかない」



ひきこもりの場合、「これから何を選択するか」というより前に、「どうしてこんなことになっちゃったんだろう」という圧倒的な無力感がある。 考えれば考えるほど無力感は増す。 「気づいてしまえば、自分がもうどうにもならないことに気づく」、それを恐れている――というか、気づいちゃってる・・・。*3
そうした冷静な理解を踏み越えてまで社会にかかわり、他者とのトラブルを維持してゆくためには、自分の中で論争として経験された症候的固執を必要とする*4。 自分のはまり込んだ事情を、当事者として分析的に検討してみること。 惨めなあり方をしている自分を素材として、メタ的な分析を試みてみること。――それは、委託された労働ではないかもしれないが、自分自身の必然において、没我的に展開される分析労働であり、「当事者労働」とでも呼べるかもしれない。


ひきこもりの苦痛は、独特の論争として経験されている。
それは社会的にも、解消不可能の論点として存続する。


まずは、トラブル回避の努力が再帰的・強迫的に徹底される。 しかし、トラブルは自分の努力だけでは回避できないことに気づく。 というか、トラブル回避の努力そのものがトラブルを招く。 ▼トラブルは廃絶できない。 だとすれば、「いかにトラブルを引き受けるのか」が実存の課題になる。 態勢が切り替わる。 ▼「トラブルとしての生」を維持運営するには、非合理な固執の焦点が必要だ。
私としては、「論点としての引きこもり」が、そういう反復的な回帰の点にあたる。





*1:清潔さに固執しすぎることが、入浴を不可能にするように。 【参照

*2:宮台氏への自意識的同一化で終わってしまう読者も多いのではないか。

*3:死んでいることに気づかない人に「もうあなたは死んでいるんだよ」と告げるのをためらうように、自分自身に「もうアウトだよ」と告げるのを怖がっている――いや、「まだ続き得る」ことに気づくほうが怖いのか。

*4:そこにのみ主意主義が宿る。