《享楽(jouissance)》――欲望の倫理

モバイル社会における技術と人間」(『Kawakita on the Web』)、斎藤環氏の発言より。

  • この幻想に対抗できるものがあるとすればラカン的な倫理がある。
    • ラカンは「罪があると言い得る唯一のこととは、(中略)、自らの欲望に関して譲歩したことである」と言っている。
    • 我々の欲望は最大公約数的な快感に代替されてしまっているところがある。 我々はあるレベルの快適さを得ているが、本当にそれで満足していいのかという問い。 そこで初めて平均化された快楽の中で自分の個別性が問われることになる。
    • スマート化がもたらすものは「快楽(plaisir)」。 緊張を解放する快感のレベルまではシステムが提供してくれる。 ラカンはその先に「享楽(jouissance)」を見出す。 それは苦痛も孕むが強烈な体験。 そこにこそ個別性・固有性がある。
    • 「享楽」は決してシステムは提供できないことを認識しておけば、自分の欲望が本当に満たされているのかという懐疑は維持できる。

ここでは、ラカン的な倫理の根幹をなす《欲望》が、「快楽(plaisir)」ではなく、「享楽(jouissance)」の道行きであることが説かれている。
《享楽》は、致死的な領域であるとされる。