「欲望が満たされたと思い込んではいけない」

私(斎藤)個人の印象としては、ラカンが臨床で使われるというのは違うと思う。 たしかに直接的に応用する方法論としては弱いかもしれないが、臨床家がある種の倫理的な姿勢を維持する上では、ラカンの教えはまだまだ有効だろう。


ラカン派の倫理として有名な言葉に、「欲望において譲歩してはならない」がある。 ラカン流のもって回った言い方をすると、「罪があると言い得る唯一のことは欲望に関して譲歩することである」。 通常なら、倫理というのは「欲望をいかに抑えこむか」という話のはずだが、ラカンでは逆になっている。 つまり、「欲望を追求するのが倫理である」。


ラカンは、私たちが漠然と思い込んでいる常識的な領域において、さまざまな逆説を口にする。 主体があると信じられているところでは「主体は存在しない」といい、欲望とは個人のものであると言いたい人の前では「欲望とは他者の欲望である」という。
欲望を追求せよというのは、私(斎藤)なりに翻案すれば、「中途半端な幻想によって、欲望が満たされたと思い込んではいけない」ということ。 「勝ち組」といった世俗的な幸福にとどまるのは錯覚にすぎない、「もっと先に行きなさい、自分の欲望をとことん追求しなさい」。 半端な幻想に満足している場合ではないよ、と。――そう考えると、ある意味ラカン精神分析は、いちばん強烈な幻想破りの機能を持っている、と言えるかもしれない。


いま、「ニセ科学」という言葉が流通していて、精神分析ニセ科学に分類されることがある。 通常の自然科学的な意味では、精神分析には科学の資格はない。 再現性・予見性・反証可能性が期待できないから。 にもかかわらず私(斎藤)が固執するのは、ひとつの倫理基準として。 とくに人文系の物の考え方がはまり込みやすいさまざまな幻想に対する解毒作用としては、もっとも強力な立場を提供しているだろう。






ラカンの認識のトポロジーである三界(象徴界想像界現実界)について大まかに理解すれば、ベイトソンラカンを対比することはある程度可能かと思う。


簡単に言えば、「象徴界」は言葉、「想像界」はイメージ、「現実界」は認識不可能