《日常》 と 《享楽》

新宮一成ラカンの精神分析 (講談社現代新書)』 p.302 より引用(強調は引用者)。

 精神分析は、自己の起源に触れる欲望に導かれて行なわれるものだ。 その欲望は、人が社会的責任を身につけるまで待ってくれるわけではないのである。 そしてその欲望の導きの結果、あの不可能な他者の場に立つことを習い覚えてしまった者はどうすればよいのだろう。 彼は、疎外された者(アリエネ aliéné)になる、すなわち精神病者(アリエネ aliéné)のように扱われる。



ここを読むたびに、阪神大震災の被災直後に経験した、大学院の面接試験を思い出す*1
精神分析の講座を開講するその試験官は、震災についての見解表明を求めてきた。
私は、ハイデガー的な《日常》について語りだした。
「水道の蛇口をひねっても、水が出なかったんですよ。・・・・・水が出ないっていうのは、それはつまり、《日常》が壊れちゃったんですね。 日常が、ニチジョウが・・・・」
語っているうちにろれつが回らなくなり、目の焦点が合わなくなるほど興奮してきた。 何をしゃべったのか、意味のあることをしゃべっていたのかすら覚えていない。 何しろ「日常が壊れた」について話そうとしたら、将来のかかった大事な試験中だというのに、興奮してわけがわからなくなった*2
ようやく興奮状態を抜け出て、ふつうの語りに着地しようとした瞬間、
「はい、だいたいわかりました」
言われて絶句し、試験官の顔を強烈に凝視。
呆然とし、何も言えなくなってしまった。
うながされるままひょろひょろと立ち上がり、面接室を出る。
――これは、まぎれもない「短時間セッション」(『ラカンの精神分析 (講談社現代新書)』p.70〜)だったのだと思う。
面接室に同席していた哲学の教授たち*3は、狂人を見るような目で私を見ていた(としか思えなかった)。
そのせいだったのかどうか分からないが、試験は落ちた。



*1:拙著 p.77-8で、少しだけこのときのことに触れている。

*2:その興奮状態は、震災直後に経験した「異様な自由」と通じている。 ▼ラカンのいう「享楽(jouissance)」の経験であったことは間違いないと思う。

*3:一次試験を哲学で受けていたので。