稲葉振一郎氏の発言から引用

論点を(また)整理するよ。

ところがここから、つまり労働需要をいかに喚起するか、をめぐってひとつ対立が生じる。リフレ派としては基本的にマクロ的総需要を喚起して、そこから派生的に労働需要を喚起するという提案をするのみであるが、内藤、そして本田由紀の場合には(どうも不分明なところが多いが)、労働需要の直接的主体たる雇用者、企業の構造改革を望んでいるように思われる。更に本田の場合は、そして最近では内藤の発言においても、これに加えて学校教育における職業教育的側面の見直しを含めて、労働市場構造の総体的な改革が展望されている。
 そうなるとリフレ派には、逆説的にも、内藤や本田と玄田有史との区別がうまくできなくなってしまうのではないか。少なくとも私はそうである。ことに労働市場改革を強調されると、それもまた一種の「エンパワメント」としか理解できない。そして玄田に対する批判も一種の近親憎悪に見えてくる。つまり無反省に(あるいは確信犯的に)エンパワメントを高唱する玄田に対して「恥を知れ」と言っているだけであり、自らは恥を知りつつつつましく別様の「エンパワメント」を構想している――と。
 たしかに、時にニート層の人々自身の「責任」を問う方向にぶれる玄田に対して、あくまでもそれを否定しようとする内藤、本田の気分には共感できるし、それは健全だと思う。しかし代わりに企業や学校の「責任」を問い、そこに問題の核心を見出すのであれば、筋違いではないか、とリフレ派としては考えざるを得ない。仮にそうした不毛な「悪者探し」をするのではなく、誰も責任を取らない/取れない隙間に落っこちてしまった人々のエンパワメントを目指すのだとしても、それは要するに再分配であり、そのための財源を十分にとりたいのであれば、やはり先立つものは金であり、景気総体の回復である。
 そうした「隙間」をなくし、不景気などのショックに対してロバストな経済・社会構造を考える、という課題はそれ自体としては興味深いが、それは今さしあたっての問題ではない。それはまさに長期的な課題としてしかありえない。(おそらくはいかなる意味での「隙間」もまったく無い社会などありえず、そのような「隙間」に対して我々に、究極的には、小手先の対症療法しかなしえない。もちろん「隙間」のできにくい社会を創る、ということの意義を否定するものではまったく無いが。)個人的には、不況をしのぎやすい経済社会は、逆に好景気の恩恵を受けにくい社会なんではないか、とも危惧する。(『教養』第8章参照。)これは多分平等主義とも関係しそうだ。


縮尺1分の1の地図は使い物にならない

もちろんもっとリアルな、現実に近いモデルを求める努力は必要ですが、それはモデルの簡便性を犠牲にしない限りでのことでしょう。もっとも詳しい地図は縮尺1分の1の地図です。そんなものはつかいものになりません。そうではなくて、ツボを抑えることが大事なのです。「リアルじゃない」じゃなく「ツボを外してる」が理論モデルへの批判の基本でしょう。
よりリアルな(かつツボを心得た)人間モデルの探究者の中でも大物と言えばノーベル賞アカロフですが、最近梶谷さんがレポートしてくれている講演などは、本田さんの期待に応えてくれるんじゃないかな。彼の最近のテーマはアイデンティティの経済学」ですしね。講演本体がhttp://www.econ.yale.edu/~shiller/behmacro/2005-11/akerlof.pdfで、梶谷さんのレポートがhttp://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20051118#p2からその続きね。