「経済主体の行動原理」の《モデル化》について

ケインズ経済学の逆襲!」(梶谷懐id:kaikaji 氏)

さて、マクロ経済学における'the Missing Motivation'というのは何のことだろうか。これは、70年代においてそれまでのケインズ経済学にかわって学界の主流となったミクロ的な基礎付けを持つとされる新古典派マクロ経済学が、実は個々の経済主体の行動に関する「モチベーション」に関する基礎付けを欠いているのじゃないか、ということを指摘したものである。


アカロフ先生講演メモ――「動機付け」と「規範」」(同氏)

その批判の理論的コアとなっている、経済主体の行動原理を考える際の「動機付け」の必要性について述べておこう。
 マクロ経済学の「ミクロ的基礎付け」という時、とりもなおさずモデルが個人(あるいは企業)の効用最大化原理に基づいている、ということを意味する。しかし、その際の「効用」とはなにか、という点に関してはそれほど深い考察と議論がなされてきたとは言えず、結局のところそれは金銭的な利得によって代替されてきたといってよい。しかし、実際には個人の「効用」には金銭的な利得であらわされないものも含まれているはずである。したがって経済主体の行動を「効用最大化」として理解するには、そこに働く金銭的なもの以外の「動機付け」に注目することが必要となる
 その「動機付け」の具体例として、アカロフ氏は「登山家がなぜ山に登るか」「教師はなぜ教えるか」「Milgromによるアイヒマン実験」などをあげるが、中でも興味深いのはアメリカの社会学者・ゴフマンによるメリーゴーラウンドで遊ぶ子供の例である。言うまでもないことだが、メリーゴーラウンドで楽しく遊べるのはある一定の年齢以下の子供であり、ある程度大きくなると面白くなくなる(効用を得られなくなる)。なぜか。自分にとってあまりに容易すぎる行為を行うことに対する動機付けが働かなくなるからである。これは大人になってからの仕事にも言えることであり、一定の能力があるにもかかわらずあまりに簡単な仕事ばかりを与えられるとやる気が失われる。これは、個人をしてある行為(経済的な行為を含む)を選択せしめる「動機付け」は、必ずしも金銭的なものに限られない、という一つの例である。
 このような金銭的なものではない行為の「動機付け」を与えるものとして、「規範(norm)」の存在を考えることの重要性をアカロフ氏は強調する。そしてこれまでの経済学における効用理論には、このような「規範」に関する考察が欠けていたと指摘する。

社会に出ることが異様に困難だとして、その困難さを乗り越えてでも就労する「動機付け」はどこにあるか。「侮辱・排除されるから」 「家族に迷惑がかかるから」。 説教派はそのどちらかに向けて動機付けようとするが失敗する。 動機付けがうまくいかなければ《強制》しかなくなる。 ▼本人にはそこで「死ぬ」という選択肢が登場する。【彼(女)が死ぬことを嫌がる人は現実にはいないかもしれない。】