「内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か?」(id:kwkt氏)

社会行為の凍結*1から遡って考えている私にとって、モチーフとしては重なるし、これから勉強を続けていきたいと思うのですが、現時点での疑問を以下にメモしてみます。

 いいから、とりあえず人間は働いてみるもんだよ。(内田樹氏)

 どんな水準でも「労働」は「オーバーアチーブメント」(id:kwkt氏)

  • 「参加しさえすれば贈与的になる」という議論は、「だから参加するのは当然だ」という形で、強圧的な規範を強化する。 それでも入っていけない存在は、ますます徹底的に叩かれる。
  • 雇い主が誰かを解雇するときには、「この人が生み出す価値よりも払う賃金のほうが多い」と判断しているのではないか。 「働いていれば必ずオーバーアチーブメント」なのであれば、解雇される理由は何か。 ▼「労働していれば贈与的になる」というのは、継続的な就労に成功している人間の事後的な自己肯定にすぎないのではないか。

 自己を供物として捧げることを拒む人間は定義において「人間」ではない。(内田樹氏)

  • 「近代社会の前提」ということなのかもしれないが、これを指摘するだけでは、不可抗力のひきこもりを差別するために、理論的な口実を作ってしまう*2。 ▼「ひきこもりはペット以下」という差別表現を、事実上追認してしまう。




*1:cf.「社会的行為の喪失点」(井出草平id:iDES氏)

*2:宮台真司氏が、脱社会的存在を「遺棄されても仕方がない」(『波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由』p.52)と表現したことを思い出す。